私ら結局、遅かった。もっと危機感がすごくあれば

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大槌町小鎚 高橋勝子 67歳

3月11日は、2時40何分でしょ。いつもねえ、午後からは暇になるので、2時以降は、用事があれば自分なりにいつやめてもいいって感じにしてるからさ。ちょうど、それこそ、一緒に逃げて、まだ見つかんないけど、友達が2時半ごろ来たのね。あーおなかすいたって。その人とはずっと、私が嫁にきて以来、仲良くしてもらってね、お世話になっていた人。2つ上の看護師さん。で、私もそばつくって、一口食べたか食べないうちに、地震が来た。店には4人。地震で、身動きできないでしょ、あの地震の強さでね。すごいのね。

高橋さんは、役場近くの大槌町大町で「立喰そば45号線」を開業していた。昨年12月、大槌町小槌の仮設商店街「わらびっこ商店街」で「立喰そば大槌」として再開。

少し揺れおさまってからそれぞれみんな帰ったけど、私はすぐにとはいかないし、あんなの(津波)来ると思わないから、戸締まりをしてガス全部止めてカギをかけて、それから自転車で2、3分のところにある家に帰った。石油タンクが転んでいたので、ちょうど近所の人たちがみんな外に出て様子を見たりしていたので「悪いけどちょっと起こしてけれ」ってしゃべって、家の中入って、仏さんの水が曲がってるし、花は倒れてなかったけど、タオルで拭いたり、花を流し台持って行った。避難所行くのに身だしなみをと思って、歩きながら脱いで、洗濯機さ入れて、これ(エプロン)脱いで、靴下も脱いで、何着よーと考えるうちに、そこあるカーデガンを着ただけだったんだよね。

だからね、とにかくね、一回は何か言ったような気したけど、そのあとは全然何もぷっつり、だって電気もなくなったし。ま、何か大変だとは分かったんだけども、これは普通とは違うという意識はあったんだけど、とにかく行かなきゃ、という気持ちにはなったんだけど。結局ほら無知なんだか、やっぱり、今になって言えば、昔みたいにサイレンや鐘とかがまず、鳴っていれば、やっぱり早く早くっていう感じなんだけども、近所の人も「早く逃げっぺし逃げっぺし」という感じじゃなかったから。

だから、人が亡くなったんだよね。あまりにも多くね。だいたい人口の1割近くでしょ。だから、ああしてくれればもっとみんな助かったかなと思ったりもするけど、しょうがないんだもんね。何でも今さらだからね。でも、やっぱり、何か、後々のため、伝えていかなければとは思うけども。そんでもね、本当に、あのときあーすれば、こーすれば、っていうのは本当にずーっとあったよ。だけど、そんときはもう夢中だからわかんないのよね。何かはとは思ってても、津波とは…

実家も仙台の海のそばだったし、すぐ太平洋で防潮林があって、チリ津波のときも、砂浜だから水がちょろっと来ただけだったのでわかんないんだよね。とにかくいつも、避難してくださいという場合、訓練で、中央公民館と私らはなっていたし、何回か行ったこともあった。それで、ちょっと遠いから、やっぱり車で行くことになってしまって。一緒に行ったことあるから、何年か前に。で、一緒に行きながら「どこさ(車)置く?」って話しながら小学校の校庭に停めて、上がっていこうというつもりで、向かっていた。

右手の高台にある白い建物が中央公民館。左手奥にある旧大槌小の手前から急な坂道があり、車で上ることができる。高橋さんの自宅からは約800メートル。

そうしているうちに、どこって言われても、は、どこでしょうっていう感じだけど、多分近くは近くだったのね、行ってる途中、ゴーって音がした。車の中さ入ってても聞こえたのね、その音がね。何この音、ってしゃべりながら、フロントガラスからのぞいたけど、全部、家があるの。全部あるの。その屋根の上を、赤茶けただの、青だの、そんなのいろんなの混じった、あれがね。向きがどうなんだか、だから、波っていう感じもしなくて「何あれ」って感じなの。土、泥と一緒なのかな。

「おりっぺし」っていうから、助手席で降りる用意をして、ドアに手をかけたら、運転手の友人はもうドアをぽんと閉めたのよ。降りてね。そこに立ったのは見たけど、あとは見てない。私は無我夢中だったから。降りて、振り返りもしないで。

振り返らなかったのが本当に今でも残念。振り返ってさえいれば、どういう状況だかはっきりかわかってんだけど、何にもわかんないからさ。だからわかんない。それだけがね。もう、あれなのね。もう、だから、一生それ背負っていかねばないなとは思っているけども。私ら結局、時間遅かった。もうちょっと早くなればスムーズにいったかなと思うけど。

渋滞してたの。車(を降りたの)は、小学校のもうちょっと手前、上がる前。警察の隣、千葉設計か、和田商店の前だったか、どのへんだったか…。車がずーっとなってた。そのときみんな走ったんたけど、その走ったときの、そこにいた人の顔だのは、全然おぼえてない。全然わかんない。

ちょっこっと振り返ったら、足元にチョロチョロ水来ていたのね。あれと思っているうちに、みんな上(中央公民館)から見てる人はとにかく「上がれー」としゃべる。聞こえた。見渡してもさっちゃん(友達)の姿が見えなくいし、どこさいったべ、まず仕方なくゆっくりと上がっていったけど、後ろ見ながら。あっち行ったかなーと探さなきゃ、という感じでいたから。その間に、上がりきれないのよ、私どうしても。途中にいたら、考えてみたら第2波なのかな、すごい勢いで駐車場になっていた校庭に入ってきた。

中央公民館に上がる途中の坂道から見る旧大槌小の校舎と校庭。当時は津波が押し寄せ、一面水で覆われていたという。

ガタガトガタゴト、車同士がぶつかっぺし、中に人が乗っているし、「助けて、助けて」という声も聞こえたし。すごい「助けて」という声が。何人かで水入って、5人くらい助けて、水濡れて寒いし、電気がつかないし暗い。上さ上がって探しても、人がいっぱいだったしさ。あんときの光景、ほんとにね。私は、さっちゃんを探していたから、流れていく光景とか、あまり見なかったからさ、今となってはよかったと思うけれど。お寺にいた人が流れてるの見えたんだって。今となればよかった。

まあ、なんなんだか。仕方ないと思いつつ。ただただ、今ね、本当にそう思います。もう少しあのとき、ああしたらこうしたら、いっぱい、後悔ばり先に立ってね。そっち(中央公民館)さ、行く途中、2箇所くらいあった。他に上がる道が。車を置いていかないと、という考えがあった。

見通しのいい駅側から、軽トラックが突っ込んできたのね。そんとき駅の方角見ればよかったが、つい運転手の顔ば見て「なんぼ危ないわ、この人」って、二人でぎゃーぎゃー言いながら。後から考えると、あっちから逃げて、急いでいたのかも。その人もしゃべればいいんだべけども「波来たよ」と、そのときわかっていれば、早く降りれて、歩いて上がって、上がれば良かった。助かったかも。

チャンスは何度もあった。みな逃してしまったんだもんね。もっと危機感がすごくあれば…。みんな逃げたと思う。「どうでしょうどうでしょう」と。「来んだべか来ないんだべか」という感じだった。「逃げて」って言っても、あれしてからこれしてから、と、いう人が多かったと、話聞けば。あの人も、この人も、という感じで。今、後から、こうしていたら、あれしていたらと。

全然何にも聞こえなかった。テレビは停電で映らないし、ラジオも持ってないし。防潮堤もあって(津波は)全然見えなくてわからなかった。『まさか』というのがあったから。サイレンや鐘が鳴ってれば、早く早くとなったかもしれないけど。今となれば。そうだべなあ。まあ、しょうがないと思いつつ。

やっぱ、物は確かに惜しいが、そんなこと頭にないのね、人さえ、という感じ。でも、喜べない。助かってよかったなんて一回にもなったことない。そんな気持ちなれない。さっちゃんがいてくれたら、違う人生だったかなと思うけど。40年つきあった。明るくて、常に笑っている人だった。

高橋さんは、役場近くの大槌町大町で「立喰そば45号線」を開業していた。写真はその付近。津波で建物もすべて流された。後ろに見えるのが役場。

大槌には、昭和42年に、仙台から嫁に来て、大町という便利なとこね、役場も近い便利なところに住んでた。商売は、家の近くで昭和62年にはじめて、旦那が50歳で亡くなったのは平成4年だから、それこそ、この道26年くらい。旦那は仕事をしていたので、1人で。それなりに、修行ってほどでもないけど山田町の方に勉強というか、通って教えてもらった。

「立喰そば45号線」という名前。昔の国道45号線のすぐそばだったから。カウンター式で、席は10人くらい程度。バイパスができてからは、そちらを通ってくでしょ。だんだんそれなりにお客さんも少し減った。まあ新しいお客さんもくるけどね。一人だからどうにか回ってるって感じね。最初始めたときは中華(そば)やってなかったけど、新しくしたときに、メニュー何かと思って中華やった方がいいかなと思ってやったんだけど。私的には、脂っこいのだめだから、昔ながらのね、だからラーメンじゃなくて、あえて名前は中華そばにした。和風的な、煮干しを主流にしてね。

(そば屋を)もう1回始める気もなかったんだけど、友人がお店をやるから手伝うつもりだったんだけど、仮設商店は、被災者じゃないと入れない。一応、私の名前ですることになった。昨日までやっていたことだから。でも何もないから、一からやるのと一緒だから、もらったりして何とか。みんなのおかげで。

たとえ暇でも何でも、来てればねえ。時間がくれば行かなきゃという、メリハリがあるからいいかなとは思うけど。体的にもいいかなと。まあまあそんなとこです。でもまだほんとに一瞬、錯覚すんだよね。あっと思ってね。まあねえ。(津波は)見事に皆もっていったもんだねぇ。ほんとにわかんない。ほんとにどうなんでしょうと思うけど。なるようにしか、ならないしさ。

再開した「立喰そば大槌」で、名物の中華そばをふるまう高橋さん。取材メモをとる私に、何度も「(麺が)のびてしまう。早く食べて」と勧めてくれた。

<取材を終えて>
高橋さんが作ってくれた中華そばは、和風のだしがきいていて、とても美味しかった。本当は思い出したくもない、という心境だというが、それでも、後々のために、と振り返ってくれた。1時間近くの長いインタビュー中、津波という単語は、1回しか口にしなかった。一緒に逃げた親友がまだ見つかっていない。もっと、ああすればよかった、こうすればよかったと、悔いていた。「助かってよかったなんて一回にもなったことない」という。お礼を言って別れた後、しばらく涙が止まらなかった。

記事=田中 輝美写真=門谷 優 / 木村 愛 / 藤井 栄人