ベランダをあけたら目の前ががれきの山だった

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大槌町小鎚 阿部利和 53歳

「大きな津波が来ます。逃げてください」って町の防災無線から男性の声が聞こえた。聞いてねーって人もいるけど、俺には聞こえたの。その2、3分後に来た。どすーんて、電柱が倒れるような音がしたわけ。どーすんて。で、ベランダあけたら、目の前ががれきの山だよね。家とか物の渦っていうか物体の押し寄せる力が… びっくりした。もうあけたらきてた。あっという間に飲み込まれた。

被災当時は、地元の工場に勤めてた。家から車で5分ぐらいの距離で、普通の地震でながったから、すぐに会社を飛び出して。母親が足腰が悪い、寝たきりじゃないけど、気になって、すぐに家にかけつけた状態。5分ぐらい後に、パートに出てた家内も帰ってきて。

普段の地震でないから避難が必要だけど、母親が足腰が弱くて。身支度して、動きが遅いんで、本人に合わせてた。ゆっくりペースで。そのとき、正直半分はここまではこないだろう。そういう気持ちはあった。もうちょっと、意識しっかり持ってれば、避けられたかなーってとこあんだよな。

母親が椅子に座って波にさらわれていく瞬間は見た。奥さんは部屋に入っているのは分かってんだよなあ。それ以外は分かんね。どうなったのかも。自分はマルタニさん(コンビニ)近くまで流された。水飲んだら終わりだと思った。波のかげんでポンと浮いた。時間にして30秒ぐらいかなあ。

がれきに挟まって首から下が身動きとれなくて。動かしたくても、動かせない。で、ちょうど波が引いたのかな、屋根が壊れたんで外が見えた。脱出できる空間ができると同時に、がれきもなくなって身動きが取れる状態になって、屋根によじのぼった。屋根まではなんとか上がったけど、痛くて痛くて動けない。後から気づいたんだけど全身血だらけで、病院に行ったら腰を骨折してた。

(屋根の上から)情景を全部みた、まだ明るかったから3時40分ぐらいだと思うんだ。うそだべ、さっきまで普通の町並みがって、信じられない。でも、自分は助かったという気持ちもあったな、自分の命は。人の姿は何人か見た。屋根に上がってる人が返し波で、海までいったんだ、その人も見えなくなったんだ。その人はどうなったか分かんね。

放心状態で、体も動かないから、全身ずぶぬれで、靴下もなくて。そしたら、火がついてきた。この辺はプロパンガスなんだ。プロパンガスの一発目で爆発したのが20メートルぐらい先で火柱があがって。ほら、ゴジラの映画の爆発シーンがあるよね。ああいう感じ。5、6カ所に火がついた。あの辺(古廟橋付近)から火がでて、町の中心部に向かってきた。火の回りって早いんだよね、波が来てるから火がつかないと思ってるのかもしれないけど、灯油とかもあるから。

土台だけが残る阿部さんの自宅。右側の黄色い看板がコンビニ、阿部さんはこの付近まで流された。左奥に橋がある。

火がせまってくるとやばいんだけど、体が暖まってきた。危ないけど、寒さのほうが先にたって…。暖まったから体が動くようになったんじゃないか、俺もそう思ってる。そこにいたら焼け死ぬから、20メートルぐらい離れた場所の2階の一室にご夫婦がいたから「そっちいっていいですか」ってがれきの上をはいつくばって。そのお宅の毛布か何かもらったのかなあ。でも、30分ぐらいいたら、その家にも火がついた。

火が早いんだって。はえー、はえー。ご夫婦に抱えてもらって山の方に行って。でも、避難する足取りより、火がくるのが早いんだ。おかげで、ぬれてるシャツは乾いたんだけれどね。こげた部分もあっけども、髪も焼けたのかな。

山よじのぼって、ご夫婦に助けてもらって城山体育館に避難した。足も20カ所刺さってた。がれきって釘の上をあるいてるみたいなもんだから。刺されてるという感覚はなかった。暗くなってるし血が出てる事態もよく分かんなかった。体育館にはお医者さんがいたのかな。でも物資もないし、横にするだけ。

城山体育館は小鎚からあがれる林道があって。軽乗用車が1台通れるぐらいの。で、俺の知り合いが見つけてくれて。「この状態では無理だ」って軽トラックの荷台に乗っけてもらって、小鎚地区の遠い親戚のところに連れてってもらって、お世話になりました3日間だけ。運がよかったというか、ラッキーだった。

70代のお母さんがひとり。車もないし。ガソリンがないし。生きた以上はがまんするしかないし。どうしようもないもんな。近所の方にお願いして送ってもらって、臼澤地区の避難所で3日間お世話になった。自分の力で歩けるようになってきたから、母親や奥さんがどうなったか、気になってるから探したんだよね。がれきの中で探すってのは難しくて、眺めるしかなくて。国道をヒッチハイクして釜石の県立釜石病院に。軽トラック3台乗り継いでいった。結構止まってくれるのね。

そしたら、また運がよくて母親の妹が、花巻にいて。その人が来たわけ。車で家族で様子を見に来た。で、たまたま県立病院に立ち寄って病院の中で会ったわけ。診断してもらったら骨折してたけど、入院する場所がない。廊下しかない。「圧迫骨折は痛みは自然にとれてくるので」って言われたから入院はしませんって、花巻で1ヶ月お世話になってきた。俺はラッキーだった。一つ一つの場面でさ。

1日でも早く(大槌に)行きたかったけど、どうにもなんない。車買って、一ヶ月たって来た。(県外に住む)親戚に「こういう状態で花巻でぬくぬくしているというのが許せない」って毎日電話で言われて。その人は、大槌の状態がよく分かってなかったんだろうし、体のことも一切言ってなかった。当時はしょうがないと思う。感情が出る人もいっぱいだったから、相手のことを考えている余裕もない。絆が深くなった人もいるけど、いままでの絆は一切辞めましょうって人もいる。どっちがいいとか悪いとかじゃない。

こういう思い二度としたくないし、させたくないし。生きた以上は何か伝えていきたいし。できることがあればやりたいと思う。前は大槌では給料も平均以上だったし、新しい車が出たとか、ソファー買うとか、そういうことばっかり考えてた。確かに物があったほうがいいけど、前の感覚はなくなった気がする。ばかくせ、なんでそういうのにこだわってたのかなって。

会社は去年の8月20日に退職して、写真を探す活動に重点を置いてる。遺影という感覚もなくて、思い出の品が大事なので、とにかく欲しい。見つけたいって気持ちで、写真を探す作業に加わって。1年やって一枚もなかった。近所の人もなかった。火災が起きたから…

写真を探すボランティアさんは4,000人。この前見つけた写真を返却する会があったんだけど。探したボランティアの人が直接渡したいって、大槌まで来てくれて。渡す人も、もらう人も涙ながして喜んで。ああいうのをみると、やってよかったと思う。

写真はNPO法人パレスチナ子どものキャンペーンによってデータベース化された。約30万枚が、入園・入学、結婚式、旅行などに分類されている。阿部さんはショッピングセンターマストで写真を探す人を手助けしている。

<取材を終えて>
「どんな記事になるんですか?」真っ直ぐな目で尋ねられた。本気度を試されている気がして内心ドキドキしながら、視線をそらさず取材の趣旨を説明した。取材は「一瞬」で、出来事や思いのすべてを切り取れるわけもなく、ずっと寄り添えるわけでもない。それでも自らの厳しい体験を託してくれた。

記事=藤代 裕之写真=末澤 弘太 / 藤代 裕之