「ここで頑張らないと、男でない」再び海に出る 小石道夫さん

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大槌町で35年漁師を続ける小石道夫さん(61)は、一時は仕事への愛着を失った。大病を患い九死に一生を得るも、津波の記憶が忘れられずに心の病にも悩まされたが、再び海に出た。

出港前の小石さん。「責任は重大。ようやくここまでこぎつけた」

あの日

いつも通り定置網揚げて、ちょっとテレビ観とったがね。うちの母ちゃんと風呂さ行くか、行がねぇかって言ってるうちに、(漁業協同)組合で会議があったの、3時から。いつもは20分くらい前に(会議場に)入ってるんですよ。ところがその日に限って、なぜだか行きたくなかったの。

津波に流された小石さんの自宅跡。今もコンクリのひび割れ跡が残る

うちの母ちゃんに「あらぁ、もう時間だよ」って言われたけど、あぁなんだか今日は行きたくねぇなぁって、そうやっているうちにさ、地震んなったわけだ。最初はカタカタカタカタって、大したこたねぇなぁと思ってたけど、大きくなったわけ、カタカタが。そんで母ちゃんと娘が飛び出したの、縁側から。

コンクリ割れて、その割れ目にうちの母ちゃんの足首が入りそうだったのさ。裸足で出やぁから、俺泡食って、首根っこつかんで引っ張り出したよ。いやぁ、ずいぶん(地震が)長かったからさ、玄関の灯油はひっくり返るし。それで(娘と妻に)おめたち先に避難してろって言って。新聞紙敷いて灯油を拭き取って、津波に遭っても1階くらいは物が流されないように、雨戸全部閉めてったのね。

「日本沈没」

で、それから海辺さ堤防行ったわけよ。堤防が家から300メートルくらいで近かったからさ。俺、責任者だったから、定置網が流されねぇんだべかなぁと思って見に行ったわけさ。消防署の人やら近くの鉄工所の人たちと、堤防さ上がって(海を)見てたのね。そのうちに、第十八早峰(はやちね)丸というのが、市場のとこさ着いたのね。俺の同級生の船。船を係留しているロープを切ってさ、全速力で(沖に)逃げたわけ。そのうちにさ、湾内が渦巻いてね。下水の排水溝から黒い水が沸いてくんの。

こりゃーいつもとは違うなと。船が蓬莱島の方まで行ったがなと思っているうちに、波が口開いたわけ。黒い煙から、建物を壊す音から、地鳴りから…あぁー来た来た来たって。ほれ逃げろって言って、(防波堤の)階段を下りてさ、そのまま山の方さ軽トラックで逃げて。10秒か20秒くらいの差かなぁ、ちょうど一瞬で助かってさ。

避難した山の方を指さす小石さん。周辺建物の2階部分まで津波が押し寄せたという

途中近所の人がいたから、俺が「逃げろー逃げろー」って言ってんのに、みんなあんまり反応しなかったのよ。海が見えなかったから、波が来てるという想像がつかないわけ。津波は2、3メートルとかラジオの放送が言ってたからさ、みんなが下に降りてしまって、自分の家の近くさたむろして、井戸端会議みたいな感じでやっていた。寒いから、上着を一枚取りに来たっていうわけ。「オーバーを忘れた」ってさ。後から山に上がってこなかったから、その人たちが全部流されてしまったのは間違いない。

俺が避難した所に年寄りが5、60人いたよ。車いすの人もいた。今度はその人たちを救助するためにさ、もう一つ上の山に上げたの。1、2人ならいいけど、1人で50人だもの。それが終わって、ふっと(海の方を)見るとさ、家がパタパタパタパターってさ、全部将棋倒しで、何て言うかなあれは、日本沈没って言うのかな、映画みたいに。そのうち、波がまた来たわけ。4回は繰り返したかな。家のがれきが全部海の方に流れてね。波にさらわれた屋根の上から、5、6人見たのかな…「助けてけろ」ってなぁ。んだども助けられねぇんだわ。

4時半ごろかな、だいたい(地震から)2時間くらいして、津波も落ち着いたから下さ降りましょうっていって。こんど、(避難していたお年寄りたちを)降ろすのがもう(大変)。母ちゃんと娘は、高台にある俺の同級生の一軒家に避難していた。

それからだよ、戦いは。年寄りたちも全員その同級生の家さ入り込んだ。そのときわたしが言った言葉は、絶対に1人で行動するな、悪いけど俺の命令に従って行動してけろ、と。みんなの名前をカレンダーの紙をちぎったやつに書かせたの、生存者を確認するために。57、8人はいたかな。そのあと安渡小学校の方に行ってみたり、一山越えて赤浜まで来て街の様子を見たりしてさ。二晩半寝なかったわ。

いつ逝ってもおかしくない

3月22日くらいからかな。なんとか落ち着いたと思って、定置網の道具を撤去したり、片付けたりしていたわけ。大槌漁協で1番最初に動いたのは俺なの。まずは片づけねばと。当時、手袋もゴム手袋もないし、素手でやってた。そっちからこっちから物引っ張り出してみたり、がれきの中で絡まってる網を引っ張り出してみたり。

漁港近くに積まれたがれき。ちょうどこのがれきの下の地面に定置網を広げて保管していた

4月4日かな、夕方2時か3時ごろ、なんだか疲れて作業やめにしたのさ。ちょうど津波で流れてきたウイスキーとか焼酎の瓶を見つけて、ちょっと一杯やっぺしと思って晩酌してたの。うちの母ちゃんは釜石の方へ洗濯やりに行ってた。でもなんだか自分でも眠いというか、疲れたというか。近所のおばさんに、「ありゃー小石さんちょっと顔が黄色いよ」って言われて。別にその時は気にもしなかった。6時か7時ごろ母ちゃんが帰ってきて、俺疲れたから早く布団さ入るって言ったわけ。で、10時ごろ、洋式のトイレで座ったまま立てなくなったの。ありゃーと思って母ちゃん呼んで、早く布団に寝させてけろって。その後横になっても、なんだかちょっとおかしかった。

そのまま釜石の県立病院に救急車で運ばれて、気が付いたら、うちの母ちゃんだの弟だのが集まっているわけ。俺の胸の写真のレントゲンが目の前にあるのが見えて、肺が真っ白なわけ。医者が「いつ逝ってもおかしくない」ってさ。「会わせる人に会わせてやって下さい」って言ってるの、俺の前でだよ。みんな俺が寝てると思って話してたの。

血液の中にばい菌が入って多臓器不全だと言ってた。漁の道具を撤去する作業中に付いた傷からばい菌が入ったらしい。自分も、あぁ死ぬんだって思ってんだけど、死ぬのがおっかねぇとかは全然なかった。うちの母ちゃんが「助かるもんなら盛岡の病院に送りたい」って言うのに、弟は「助からないならここさ置け」って言ってた。結局盛岡の救命センターにヘリコプターで運ばれた。盛岡さ着いてからは全然意識がねぇ。確か先生に「盛岡あと何分くらいで着きますか」って聞いたら「あと10分だ」ってのは耳さ入ったが、それからは分からねぇ。

それから2週間意識がなかった。目が覚めたとき、手足はベッドに縛られていた。ここはどこなんだべかと思ってさ。輸血はやるし、透析も1週間くらいしたかな。気が付いた時、声が出なかったの、人工呼吸器入れてたから。うー、うー、っていう弱々しい声しか出なかった。(医師に)人工呼吸器入れた患者は99%助からないよって、あんた稀だって言われた。まぁ俺の考えだけども、津波の時に年寄り5、60人助けたから、あの恩返しでねぇのかなと。その年寄りたちの魂が俺を助けたんでねぇかな。

浜なんて二度と出ない

引っ越してから5カ月のうち2、3回しか外に出なかった。人と会うのも嫌、顔見るのも話し掛けられるのも嫌。朝起きてテレビのニュース見て、ご飯食べて横になって、またお昼食べて、横になって、その繰り返しだ。そんなこと今まで一度もなかったよ。飲み屋へ行けばおなごに声掛けて活発的にやってた俺だからさ。(唯一話をしたのは)母ちゃんだけかな。イライラっつうか、今思えば、うつ病の一歩手前でねぇべかなと思う。3月ごろまで、働く気もなかったし、漁師をやる気もなかったし、どうにでもなれやという感じだった。

定置網の仲間で亡くなったのは1人だけだけど、俺の同級生とか近所の人とか7、8人亡くなった。津波の記憶はまだ残っている。あの地獄みたいなのを見たときは、浜になんて二度と出るもんでねぇと思った。携わりたくもなかった。

小石さんの青い漁船。5隻のうち4隻は回収し、修理することができた

屋根の上に乗って津波に流されていた人たちが手を振って「助けろー」って言っても、助けられない悔しさというか、なんつうか、なんとも言えない気持ちなんだ。がれきの下敷きになってる年寄りを見たときさ、まだ動いてんだよ。みんなで(がれきを)どかそうとしても動かせないわけ。道路際で見てるんだけど助けられんのね。あちこちに人は挟まってるし。下敷きになって亡くなっている人を20人ぐらい見たかな。あの時の気持ちっつうのは言葉では言い表せねぇ。思い出せば涙出てくるよ。

もう一度、立ち上がる

そんな時に、うちのばっち娘(末娘)が子犬買ってきたわけ。生まれてから1、2カ月の黒いポメラニアン。ワンコが来て散歩さ行かなきゃいけなくなった。外に出るようになって、だんだん近所付き合いとか、人と接触するようになって。初めは犬になんて興味なかったし、あっち行けって。邪魔だと思ってた。

それが、犬が人さ慣れてきて、だんだん俺から離れなくなったんだ。俺も自分が食べてるお菓子やったりしてさ。俺には言わなかったけど、次女がうちの母ちゃんに「あのままでは(父は)だめになってしまうから何か与えた方がいい、犬を買ってきたから黙って世話を任せた方がいい」って言ったらしいんだ。この娘は、つっぱってるし、悪態はつくし、でもそれで優しいところがあるんだ。犬はピティって名前で、娘が付けたんだ。

そのうち組合が傾きかけて、結局倒産みたいな感じになって。こりゃ、てーへんだわと思っているうちに、組合の方から「もう一度建て直したいから力になってくれ」と電話が入った。やっぱり漁師だべし、組合を潰しちゃいけねぇと思ってもう一度立ち上がったんだ。それでもまだ、できっぺかなぁ、できねぇべがなぁ、と半信半疑だった。でも、何日か通っているうち、だんだん、もう一肌脱ぐかな、という気持ちになってきた。これから、この定置網で大槌漁協が復活出来るか出来ないかっていう重大な責任を任せられているから。震災の後は、漁業で稼ぐのも嫌だし、定置網の図面書くのも嫌だった。あの気持ちから今現在まで、自分ながらよくここまで立ち直ったと思う。あの時の気持ちがどこさ行ったんだか、俺にも分からない。

小石さんに立ち直るきっかけを与えてくれたのは、父を思う次女咲月(さつき)さん(21)の小さなアイデアだった。小石さんが「ピティ!」と名前を呼ぶと、仮設住宅の中から飛び出してきた

再び海の上

定置網を引く際に「早くやりゃあ」「手早く」「逃がすな」と怒鳴っていた小石さん。「ふだんはおとなしいんだけど。秋の鮭をとりたいから、ここで頑張らないと、男でない。久しぶりの漁で、私だけかもしれないけど、興奮した」。水揚げは最盛期の3分の1だったが「復興」と刻まれた大漁旗が船に翻った。

記事=耳塚 佳代写真=耳塚 佳代 / 亀岡 雅俊