すぐ逃げなさいと言っても、それが簡単にできない理由があるんだと思う

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大槌町小鎚 山陰洋子 59歳

どこからか「ひゅんひゅん」という緊急地震速報の音が聞こえて、すぐに大きな揺れが来たんです。思わず立ち上がって後ろを振り向いて、書棚を手で押さえました。窓から外を見ると、止まってる車がずずずって動いていて。揺れがおさまったら電気はぶちんと消えました。

須賀町にあった大槌町シルバー人材センターでちょうど決算データを入力してました。母親が80越えて家に1人でいるから、大丈夫か分からなくて、栄町にある自宅までは自転車で2、3分ほどの距離だから「ちょっとうちの様子見に行きます」と大声で言ってね、戻ったんです。

流れた自宅跡は草が生い茂り、土台部分は近づかないとほとんどわからない。付近は津波にのまれ、一面が海のようになっていたという。後ろに見えるのが水門。

家に戻ると、家具は転んだりは一切なかったけど、書棚の本が落ちたりして、おばあちゃんは1階のリビングのソファで座ってました。「いんだいんだ、後で片付けよう」と話してました。そのときは逃げようとは思わなかったの。家は2階建てで敷地も60坪ほどなんだけど、部屋は7部屋あって、家中回って部屋を確認して扉を開け放しました。どこかで、地震が来たら建物がゆがんで扉が開けられなくなる、ていってたのを思い出してね。

もう一度、事務所に戻ろうとして家から出て10メートルぐらい進んだら、近所の奥さん2人がリュック背負って逃げようとしていたんです。わずか10メートルの距離を戻るのがもったいない気がして、1人に「うちの母さんに、すぐ戻るから逃げる準備して待ってて伝えてください」て頼んで、職場に戻ったの。近所にはあまり人がいないし、下水溝から水が逆流してて「これはただ事じゃないな」と思って。途中で河口を見に行った男の人から「水門ふさがらないようだから逃げたほうがいい」と言われました。

事務所に戻ると上司に「避難するか?」と言われて、「もう誰もいませんから逃げないとだめです」って言いました。同じ建物に事務所があった建設業組合や安全協会の人にも「逃げましょう」と声をかけました。建設業組合と安全協会にそれぞれ1人ずつ残ってて、建設業組合の人は車で、安全協会の人は歩いて逃げたんです。私は事務所の現金とかデータが入ったUSBとかを手提げ袋に入れて最後に建物の鍵を閉めて出ました。

手提げ袋を持っていたから、歩いて帰ったんです。家に戻る途中はもう誰もいなかった。家に帰ったら、おばあちゃんはソファに座っていました。用事があって2階に上がって。何しにいったかは覚えてないけど、階段を降りようとしてふいっと2階の洋間を見上げたら、南側から瓦屋根の大きな家が流れてきたの。これは大変だと思って、おばあちゃんに「早く早く」って踊り場から2階に上がるように声かけたんだけど、おばあちゃんはよく分かってなくて。私が1階まで下って手を引っ張って、2階まで上がった。

もう水はどんどん入ってきて、ちょうど引っ張り上げる途中に足が濡れました。おばあちゃんは「足が濡れたねー」って。でも、私は必死で。話してると時間かかるけど、そのときは本当に一瞬。

物にあたらないように狭いところに入らなくちゃ、窓から物が入ってくるから部屋に入ったらだめだととっさに思って、2階の狭い廊下の壁側に母親を立たせて、私は後ろから覆いかぶさったの。右下のほうを見たら階段の踊り場にある窓から、波の影が見えたの。船に乗ると、窓から見えるような波の形。栄町にこのぐらいの波が来たんだなと思って。

後から考えたら、もう瓦屋根が見えたときには家は流されていたはずなんだけど、そんなことは全然分からなくて。衝撃はなくて、流されたとも思わなくて怖さもなかった。中央公民館からこのあたりを見てた人に聞くと、ここ(栄町)は渦を巻いて、家は粉々にくだかれて行ったり来たりしていた、っていうけど、私たちはまっすぐマストの裏に流れたから。

山陰さんの自宅は左端の四角い建物の付近にあった。そこから右端の乳白色の大きな建物のマストまで約700メートル流された。

火事場の馬鹿力っていったけど、頭もどうかなってるんだろうね。廊下に逃げたのだって、普通なら部屋に入る。後で見たら流れてる間、部屋の中はしっちゃかめっちゃかになってた。

水がどんどん入ってきて、狭い廊下で必死に耐えてました。(水は)胸の上まで。30分ぐらいしたら、すーっと水が引いて、安心したらまたすぐに水が来ました。立っていた場所のすぐ左に納戸があって、おばあちゃんを納戸にあったタンスか何かいろんなの上に足をのっけさせました。ちょうど一回帰ったときに、納戸の扉も開けてたんですよ。私は、横倒しになったガラス戸の上に立ちました。ガラス戸は2枚重ねで倒れていて、横の部分の桟の所にようやく足が乗せることができたんです。

納戸の鴨居を両手で持って体を支えてました。でも、あごのすぐ下にまで水が来た。もう馬鹿力だったと思う。危なかったです。ここに来た水は引くんだ引くんだという気持ちだけでね、ずっと耐えてました。でも、家中の扉を開けていたおかげで水が抜けていったと思います。あれで扉が閉まったままだったらすぐに水に浸かってたと思う。

今から思うと潮が引くあたりでちょうどマストまでたどり着いたんだと思います。ずっと流れていたから家は浮いてて。後でこのあたりの津波のときの写真を見たら、当たりは海のようだった。流れて良かったんです。流れなければ、家は水没でした。

第二波の水が引いたら、すぐに震えがきたの。全身ずぶ濡れで、たんすの上に置いてた捨てようと思ってた服だけは濡れてなくて、おばあちゃんにはピンク色のパジャマを着せて、スキーにいったばかりだから、スキーウェアのズボンがあったからそれもはかせて。私はぴらぴらしたウインドブレーカーのズボンに着替えました。ちぐはぐなもの着てね。

部屋の中を見たら、たんすがぐちゃぐちゃに倒れてて。階段はがれきや材木でいっぱいで、私の部屋の窓から、ベランダに出ると見たことのない山が見えて、ようやく流されたんだな、って分かった。ベランダの前によその家の屋根があって、そこにはい上がると大きな建物があった。私はふれあいセンターかな、て思って屋上に3人ぐらい人がいたから「ここはふれあいセンターですか」て聞いたら、「マストだよ」と返ってきてびっくりした。全然地理がわからなかった。ちょうどマストとJRの線路がある土手の間に挟まった状態だったんだね。

「あのあたりで止まってたんです」とマストと線路がある土手の間を指し示す。約20メートルほどの空間にはがれきが高く積もっていたという。

津波が引いたあとは、土手があったことがわかってなくて、よその家のがれきが高く積み上がってるんだと思ってたの。だから、がれきの上に立ったらもし崩れて沈んだらどうしようかと思って、避難できないと思った。

「母さん、今晩はもうここだね」と話しました。夕方になって日も暮れたし、そのまま家にとどまった。ぬれてない服探して着替えました。不思議なんだけど、私の部屋のベッドだけは水をかぶってなかったの。床は泥だらけなんだけど、ベッドはちょっと端が濡れていたぐらいで。ラッキーと思いました。そこで夜は寝ました。夜の間に少しずつ家が傾いたり、ドーンドーンて火柱が上がる音がきこえて、その度にぽっと部屋の中が明るくなるんだよね。でも、知らんぷり。まずはあの部屋に救われた。運の一つだよね。

次の日の朝、消防隊に助けられて大槌高に避難したけど、ずっと何が起きたかはわかっててなかった。13日に大槌高のグラウンドから町を見たときだからね。「鉄橋がない、橋がない」て。町の光景を初めて見た。

家建てたのは30年前で、3、4年前に増築したばかり。家の跡に来ると悲しくなる。どんどんみすぼらしくなってる。今年は草がたくさん生えて。流された家の近くの道路に新しいアスファルト敷かれてたけど、あれはなんででしょうね。もう住めるはずもないのに。

今回の場合は家にいたおかげで助かった。もう少し時間差があって、逃げてたら、津波にさらわれてしまいました。逃げないで助かったていうのは不謹慎だけど、私の今回の場合はね。普通は逃げるが先、やっぱり逃げなきゃ。でも、高齢者と一緒に住んでる人とか、歩いては逃げられない。難しいですよね。私はね、常々母には「いざというときは台車に母さんを乗っけて、その勢いで私も走るから」て言ってた。

台車ていうのはごみを出すための小さな台車で、あの日も玄関まで持って来てるんですよ。それしか方法がないんですよ。自分だけを守られない、やっぱりねぇ。おばあちゃんはもう85歳。今は本当に歩けない。台車を使ってたら助からなかった。同級生とか知り合いで亡くなった人たちは親を見るためだった人がいっぱいいるんですよね。自分1人だったら逃げられただろうに逃げられなかった事情があったんだと思います。やっぱり、家族の構成では、すぐ逃げなさいと言っても、それが簡単にできない理由があるんだと思う。

仕事の傍らボーイスカウトの活動も続け、毎週のようにキャンプなどの行事に飛び回っている。

<取材を終えて>
自分だけでも逃げるということを選べない-。「逃げる」とは何なのだろう、と繰り返し問い直させられた。最も大切なものを守るために「逃げる」。でも、それが守れないときは、どうするのだろう?山陰さんは「自分だけを守られない」と深く息をつきながらつぶやいた。私はぐっと言葉に詰まった。

記事=中尾 悠希写真=中尾 悠希 / 倉田 匠