まだ大槌の人には見せられない 映画「槌音」を制作した大久保愉伊さん

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震災前に撮った映像と被災後の風景を合わせ、被災した大槌町を描いたドキュメンタリー映画「槌音」。町出身の映画作家、大久保愉伊さんが制作した。実家の被災後、震災後2週間の町に駆けつけた大久保さんはカメラを持って行かなかった。作品中の現地映像はスマートフォン「ギャラクシーS」で撮られたものだ。

「槌音」は国内外の映画祭に出展され大きな反響を呼んだが、大久保さんは、震災から1年半を経たいまも「まだ大槌の人には見せたくない」という。

ビデオカメラを入れた大きなバッグを肩にかけて現れた大久保さんは26歳。「愉伊」という名前には「愉快に人や世の中を治める」という意味が込められているという。実家は津波で破壊された大槌町の中心部。父は和楽器を奏で、母はピアノ教師という音楽好きの一家。ビデオ好きの少年が、家にあったビデオカメラで撮り始めたのは「小学校高学年くらいですかね」。

釜石南高校(現・釜石高校)に進んだころ、漠然と映像に関わる仕事がしたいと思い始めた。当時好きだったのは、SF映画の「スターシップ・トゥルーパーズ」。東京の大学への進学を相談すると、両親は「がんばってこいよ」と送り出した。

成城大では芸術学科と映画研究部に在籍。「海に来れ」などの自主映画を制作した。作品中に海が現れ、そしてその背後には山があるという構成がある。「リアス式海岸の街で育ったからでしょうか」と大久保さん。

卒業後、助監督などを務めながら、新宿のレンタルビデオ店でアルバイトも続ける。「芸人志望も、役者志望も店にいますよ」。もちろん映画の制作活動も続けていたそのとき、大震災が襲った。

「神奈川でスタッフと映画のロケハンをしていたんです。小田急線の柿生駅(川崎市)にいました。すぐに改札を飛び出して、駅前のコンビニで、震源が三陸沖だと知りました」。大津波警報が出たことは知っていたが、自らも、杉並区の自宅を目指す帰宅難民になっていた。携帯電話の電源もやがて切れ、テレビは千葉県のコンビナートの火災を映し出す。しかし、故郷、大槌町の情報は何もなかった。

燃える大槌の街が上空から東京のテレビに映し出されたのは翌朝になってから。両親と妹、家族の安否が分かったときにはすでに3日が経っていた。実家と離れて暮らしていた祖父を失っていた。「早く帰りたい」。しかし交通手段はなかった。ようやく走り出した夜行バスで大槌に向かったのは震災からほぼ2週間が経った3月24日になっていた。映画作家がまとめた荷物だったが、カメラは入っていなかった。

「カメラを持って行こうという気持ちはあった」。「記録すべきだ」とも思いながら、「しかし持って行っても、撮れないんじゃないか」。

車で釜石市から大槌町に入った。ことごとく破壊された光景が広がっていた。「記録しなきゃ」と感じたのは、自然の成り行きだった。スマートフォンを車窓に向けた。撮影したのは30分。結果的にはスマホでも「ビデオにひけをとらない」画質だったのだが、撮影には1カット2分という制限もあった。しかし大久保さんは「大きな(映画用の)カメラを持っていったら、風景すら撮れなかったかもしれない」という。なぜか。

「僕は津波に遭っていない。震災後の2週間、テレビやネットを見ている立場だった」。3月11日に町にいたら…。町で育ちながら、大変な思いを共有できていないのではないかと感じていた。風景は撮ったが、被災した人々にスマホを向けて撮ることはためらわれた。

30日に帰京した。東京に戻ると、大槌にいたという実感がないことに気づいた。「起きていることに向き合う必要がある」。自分の中で映像をまとめる決意ができた。

町並み、漁港、町の祭り。上京するとき持って行った10本あまりのビデオが、東京に残っていた。「音、においが消え、重機やカモメの声だけが聞こえていた。その大槌にかつてこういう音が響いていたんだよ」という想い。「心の中をまとめるため」につくった映画は、4月の中旬に一気に完成。23分の作品が4月末、映画研究部のOBが開いた「大久保家を励ます会」で初公開された。

その後、「1日だけなら」と劇場で上映された「槌音」は大きな反響を呼び、全国各地や海外のドキュメンタリー映画祭でも上映された。しかし大久保さんは「昨年は、映画が公開され続けることが苦痛だった」と話す。今は「こういったものでも、この時期に発信することに意義があるのではないか」と感じてはいる。それでも、「槌音」は「まだまだ消化できていない。(当時の)気持ちの不安定さが出ている」。

自身が「しんどいな」と振り返る喪失感を映した「槌音」。大久保さんは大槌では求められても上映しないことに決めた。「そういう作り方をしている映画を見せて、大槌の次につながるとはいまは思えない。『考えすぎだよ』といわれたとしても、僕の気持ちです」。

「槌音」ののち、大久保さんは今年6月から、ふたたび大槌を題材にした新たな作品の撮影を始めている。それは自分の「無知」を自覚したからだともいう。「自分の家が取り壊されてなくなり、以前、過去にどこに何があったのか。自分が大槌の何を知っているのか」という疑問。

町が進めている新しい街づくりの計画のもとに、やがて市街地はかさ上げされ、新たな町ができはじめる時期が近づきつつある。そうなれば、がれきの中にわずかに残された古い町の残影は完全に姿を消してゆくことになる。「忘れたくないと思っても、ささいな思い出は抜けていってしまう。過去の大槌町を記録することで、未来を考えるきっかけになる」という願い。そして、震災が起こる前の町のかたちを残すのは「今が最後のチャンス」。

6月から毎月大槌を訪れ、インタビューや撮影を続ける。今度はDVX100B(パナソニック)という業務用のビデオカメラを持ち込んだ。来年3月に完成させる映画は、「大槌の次につながる」ためのもの。

「震災の映画を作っている気持ちではない。記憶、自然と共に生きる、祭りという3つの視点で記録したい」。その作品は、町の人々に最初に見せたい作品にするつもりだ。

東京がふるさとの記者が、大久保さんに「思い出の風景」を聞いてみた。大久保さんが挙げたのは、「実家の隣にあったジャズ喫茶」。親に連れられ、ひげを蓄えた喫茶のマスター、店内にあふれるレコード…大久保さんにとって一番だった風景も、作品には描かれるだろうか。

人の思いは、少しずつ変わっていく。とすれば、「槌音」を大槌町の人々に見せる日が来ることもあるだろうか。もし来るならば、それはいつ。記者の最後の問いに、大久保さんは少し考えてから、「新しい街ができ、生活が再び構築されれば。そして震災前の町の記憶が薄れたときに」と話した。

記事=小泉 忠之写真=渡辺 大洋