流される屋根にしがみついて、水の中から頭だけを出していました

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大槌町小鎚 祝田チエ子 69歳

防災無線は聞こえなかったんですよ。突然、誰かが「津波が来るぞ」と叫んだので、大きい道に逃げようとしたけれど、近くの川からあふれた水がチョロチョロと流れて来て、移動することができなくなったんです。だから、夫と一緒に近所の空き地のブロックの塀にしがみついたの。高台もなかったので「ここまで水が来たら終わりだな」と思ったね。不思議と怖いとか感じなかったなあ。あきらめの気持ちになってたみたい。

祝田さんがつかまっていたブロック塀の跡が今も残っている。流された時と同じリュックを背負いながら、当時を振り返る。

地震が起きたのは、病院に行って、夫と一緒に車で家に返る途中の橋の上だったの。「橋が崩れ落ちる。危ない」って思ったんです。道路がうねっていたので、「父さん早く車を止めて」と叫んだのよ。この後、信号が黄色に変わってしまったけど、しばらくしたら青になったので、車を走らせて何とか近くの家までたどり着きました。この時は津波が来るなんて思ってなかったなあ。(1960年の)チリ地震の時には、高台から津波が来るのを見たこともあるのにね。

帰ってから10分くらい家にいて、買ってきた夕食のおかずを冷蔵庫に入れたりもしてたなあ。離れて暮らしている娘から電話があったので、「とりあえず大丈夫だよ」と言ったけど、うちは平屋建てだし、家の中にいるのも怖いので、避難しようと思ったんです。「ここまで津波が来たら大槌は全滅だね」という話を夫としてましたね。でも、津波が来ても廊下が水に浸かるくらいだと思ってましたよ。だから、長靴を持ちました。もしかしたら後片付けをする時に必要かもしれないと思ったからね。

ブロック塀にしがみついていたら、「バーン」という音とともにいきなり水が押し寄せてきて、急に水かさが増したんです。私がつかまっていたブロック塀には門扉があったんだけど、門扉につかまっていた人たちは、水の勢いで門が一気に開いて流されてしまったの。塀のそばには木があったので、私は今度そこにしがみついたんですよ。枝が折れなかったので、何とかつかまることができました。それでも水かさが増してきたので、木の枝を登っていったの。近所の家の2階部分だけがスポっと流されていくのが見えたねえ。

かつて住んでいた付近は、ほとんどの住宅が津波で流され、土台だけが残っている。

やがて、屋根が流れてきたの。丸ごとではなくて、三角屋根が真ん中で折れていて、その片方だったみたい。夫が「屋根に移るぞ」と言うので、何とか枝から屋根に乗り移ろうとしたんです。夫は乗り移れたんだけど、私は完全に乗り移ることができなかった。屋根の雪止めの格子につかまって、ぶら下がる形になったんです。体はもう水の中。波が行ったり来たりして、水かさが増すと頭まで水につかるような感じだったなあ。頭がつかると、息ができなくて本当に苦しかった。

水の中で目を開くと、ゴミがうようよしてたの。「この水を飲まなければいけないのか」と思ったね。「もう死んでもいい」とまで思ったけど、その時、急に水が引いたんです。屋根の上にいた夫が、「今あがれ」と叫ぶので、自力で上がろうとしたけど、今度は右足をガレキに挟まれてしまいました。また水の中につかってしまった。夫はここで私が水の中に沈んでしまったと思ったそうね。ガレキに挟まれて、胸も締め付けられるようになって、「もうだめだ」と思った矢先にまた水が引いたのさ。

何とか水の中から首を出していると、夫が「今なら上がれるぞ」といって、私が背負っていたリュックをつかんで持ち上げようとしたんです。でも、なかなか上がらなかったんですよ。夫は私に「頑張れ、頑張れ」と声をかけながら、何とか持ち上げようとしてました。やがて、波が来て、体がふわっと浮いたんです。その時に何とか引きずり上げられました。やっと屋根の上に乗ることができたの。でも、屋根の上は本当に何もかもが寒かった。水に入っていた方がまだ温かかったくらいですよ。屋根が少し温かいような感じがして、そのぬくもりが今でも忘れられないなあ。

屋根の上から見た光景は、町は一面火の海で、山の上にはたくさんの人がいる感じだったなあ。夫は「覚悟せい、覚悟せい」と言って、私は黙ってうなずいていました。死んだような気持ちで、驚くほど落ち着いていましたね。周りには、火の点いた水が次々と流れてくるんです。火が「ボーッ」と花火のように上がるので、東京の隅田川の花火大会はこんな感じなのかなとふと思って、夫に話してみました。「カメラがあればよかったのに」と言いながら、観光気分みたいな不思議な感じでしたね。

でも、雪が降って来て、本当に寒かったあ。発砲スチロールの蓋があったので、夫がそれを掲げながら助けを求めてました。屋根がとても冷たくて、もう駄目だと思ったなあ。夫に「父さん、雪山で死ぬのはこんなんだべね」と話したのを覚えています。だんだん眠たくなるんですね。山の上にいる人たちが私たちの方を指差しているのが見えました。周りに火の海があったからでしょうね。

一緒に屋根の上で耐え抜いた夫の均さん(左)とともに笑顔を見せる。

やがて、家の近くのバイパスまで流されて戻ってきた時に、山に避難していた4、5人の方に助けられたそうです。元消防隊員の人が先頭に立って、救助してくれたそうですよ。「そうです」というのは、実は私は屋根の上で気を失っていたので、助けられた時のことは何も覚えていないの。後で夫からその時の様子を聞きました。結局、私たちは2、3時間は流されていたみたい。助けてくれた人たちは、自分たちのジャンパーを脱いで、袖を結んでタンカを作って私を運んでくれたそうです。どうやら私をたたいても反応がなかったそうです。やがて、老人ホームまで運ばれて、湯たんぽを入れてもらっている時に、意識が戻りました。体中が本当に痛かった。流された時に飲んでしまった水も何度も吐きました。胃液が出るまで吐きました。

結局、私たちは、家があった大槌北小学校の近くから、500、600メートルくらいの間をぐるぐると回っていたんです。渦の中をまわっていたので、あまり遠くまで流されることはありませんでしたね。家の近所には、川が流れているんですが、もしそちらの方に流されていたら、海まで持っていかれたんでしょう。

今になってみると、本当にゾッとしますね。流れた当時は、怖いも恐ろしいも何もなくて、人ごとのように考えていました。今は、もしつかまっていた屋根の格子がなくて、そのまま流されていたらと思うと本当にゾッとします。でも、逃げ場がなかったから当時は冷静になれたんでしょうね。人ごとみたいな感じかもしれない。

<取材を終えて>
祝田さんは、当時のことを紙に記録しようとメモ用紙1枚に途中まで書いたまま、なかなか書けずにいる。振り返ると恐怖を感じることもあるという。だから、自分にも火が迫っているのに「東京の隅田川の花火大会みたい」と思ったという話が出たときは驚いた。それほど非現実的な極限状態を想像することも、伝えることも難しいと感じた。

記事=新志 有裕写真=村上 あずさ