小川旅館は嵐でよみがえる 女将・小川京子さん

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この笑顔に、何度、励まされただろう。老舗の小川旅館の女将・小川京子さん(51)は、自宅玄関に飾ってある写真を見つめる。そこには、人気グループ「嵐」のメンバー松潤こと松本潤さんの笑顔。東日本大震災で全壊した小川旅館。一度は「死にたい」とまで思った京子さんだが、嵐と松潤を支えに、12月3日、小川旅館「絆館」として再開した。

建設中の絆館の前で夫の勝己さんと並ぶ京子さん

小川旅館の歴史は、幕末までさかのぼる。京子さんが旅館を継いだのは、昭和56年、20歳の春。父親が倒れたことがきっかけで、関東地方で就職も決まっていたが、思いがけずUターンすることになった。「それからの3年間は記憶がないんです」。あまりにも無我夢中で、いつ寝ていつ起きて何をしていたのか、ほとんど覚えていないという。

大切にしていたのは「お客様第一」の精神。宿泊客が仕事で遅くなれば、帰りを待って食事をふるまった。午前4時に出発する釣り客がいれば、深夜に起きて弁当を用意した。「若かったからできたんでしょうね」と振り返るが、仕事に厳しかった先代の女将で母・ミヲさんの背中を見て、それが当然と思っていた。2カ月滞在する客もあり「親せきのように親しくなった」と懐かしそうに笑う。

3月11日は、当時、入院していた母の見舞いで、盛岡にいた。病院で感じた、立っていられないほどの激しい揺れ。大槌町にいる息子にすぐ「高台に逃げて」とメールした。宿泊客の顔も次々と浮かぶ。タクシーをつかまえ、山道をぬって大槌町に急いだ。大槌町の奥にある金沢地区に着いたのが午後10時。そこから、まちが赤く燃えているのが見えた。これ以上は進めない。タクシーを降り、焦る気持ちをおさえながら、徒歩に切り替えた。

避難所である安渡小学校に到着したのは午前12時。家族や宿泊客が心配で、うまく寝付けなかった。翌日から探し回ったものの、息子は見つからない。娘に「お母さん、大丈夫だから」と諭されたが、若い男性が皆、息子に見えた。実際にいつ会えたのか、記憶が定かでなく、1カ月後だったような気がするが、家族によると、もっと早かったという。

ようやく立ち入りが許された町に入ると、がれきの山だった。まちの中心部にあった鉄骨2階建ての旅館と併設の自宅は、津波で流され、さらに直後の火災で骨組みだけが残されていた。ショックだった。営業許可の取り扱いを相談しようと訪れた役場で提出を求められたのは「廃業届」。「これで終わった」と絶望した。

家族は別の土地に行くことも提案した。ただ、京子さんの選択肢には、なかった。宿泊客の安否はわからない。そして、町民の皆がどこにも行かないで、避難所にいる。皆と一緒に、行動を共にしたい。大槌から離れたくないと、強く思った。大槌が大好きだから。

小川旅館の跡地。街の中心部である本町にあった。京子さんは今でもここが原点と話す

京子さんが避難した大槌高校にいたのは、多いときには1500人。班ごとに分けられ、その班長になったが、見知らぬ他人同士が生活する空間だけに、あつれきやトラブルも絶えなかった。あるとき、ちょっとしたことで同じ班の男性から「あんただって盛岡行ってるでねえか」と言われた瞬間、気持ちがぷつんと切れた。

確かに、毎週日曜日は、母の見舞いに盛岡に行っていたが、他の日は一生懸命、班長の仕事をしていたつもりだった。「そんな風に思っていたんだ。私がやってたことは何だったんだろう」。これまでのストレスも重なり、初めて「死にたい」という思いがよぎった。

「どうしたんですか」と、声を掛けてくれた、1人の保健師がいた。感情がわき上がり、避難所の保健室で、1時間、おいおい泣いた。「気にするな」とじっくり話を聞き、一緒に涙を流してくれたNPOの関係者もいた。「一人じゃないんだ」。死ぬということを思い直し、徐々に前向きになっていった。

膨らむ再出発への想い。「私の代で、旅館をなくすわけにはいかない」。毎日、流された旅館の跡地に足を運んでは「必ず戻るからね」と誓った。とはいえ、再開する場所も、お金も、ない。仮設店舗を申し込んだが、大きな建物はできないと断られた。「やりたい、やりたい」と焦るだけで、何もできない状況が続いた。

不安やイライラに襲われる中で、どうやって気持ちを安定させるか、もがいた。ふと気付いたのは「元気だったころの通りにしたらいいんだ」。人気テレビドラマ「花より男子(だんご)」で主人公の御曹司・道明寺司役を演じていた松潤に、すっかりほれ込んで以来、うちわや下敷き、CDなどを買い集めていた。

若い頃から演劇好きで、演技力を見る目は肥えている京子さん。松潤は、単なるイケメンであるだけではなく、幅の広い、深い演技ができるところが気に入っていた。息子に頼んで、ネットオークションで昔持っていたグッズを入手してもらった。京子さんの松潤推しは、避難所でも有名になり、小学生の女の子から切り抜きを送られるほど。手持ちの松潤はどんどん増えていった。見ていると、幸せな気持ちになれた。

京子さんが自宅玄関に飾る松潤と嵐の写真

落ち着きを取り戻したころ、転機が突然、訪れた。同じように民宿や旅館を経営していた仲間から、グループで助成金をもらう経済産業省の「グループ補助金」への応募の話が舞い込んだのだ。「やれるんだったら」と、大槌町や宮古市のメンバーと申し込むと、無事に申請が通り、視界が開けた。

ただ、元の旅館の場所で残った鉄骨を再利用しようと考えていたが、町の方針でできなくなり、大槌町小鎚の花輪田地区に土地を借りて、新たに建てることになった。その結果、必要な費用は、申請金額よりも膨らみ、借金をしなくてはならなくなった。駐車場は舗装することができず、砂利のままだ。

もちろん、松潤と嵐以外にも、京子さんを支えてくれたものは、たくさんあった。一つは、以前の宿泊客。「女将さん、大丈夫ですか」。大量の支援物資を手に、わざわざ避難所を訪ねてきてくれたこともあった。「どうしてますか、心配しています」と、直筆の手紙が届いたこともあった。

大槌町民も、以前は近所の人しか交流がなかったが、避難所で多くの出会いがあり、励まし、助けてもらった。再開が決まってからは「待ってだったよー」「親せき来たら、行かせっからね」と、声をかけくれた。あるおじいさんの「小川さんの笑顔が一番いいから、いつも笑っていてね。ありがとね」という言葉を思い出すと、胸が熱くなる。

こうしていろんな人とつながりながら、感じたのが「絆」という言葉だった。だから、再開する旅館の名前は「絆館」に決めた。14室で、収容人数は30人。以前とほぼ同じ規模だ。「皆さんがうちに来て泊まって、談話しながら、また違う人が来て、会話が広がっていく。そんな旅館にしたいんです」。

絆館の玄関に立つ京子さん。再開を祝って花がたくさん届いた

ただ、あくまでも、元の小川旅館の場所で再開できることが、最終目標。絆館は、そのためのステップにしたい。そして、小川旅館だけでなく「大槌のまち全体がよくなり、町民が手をつなぎ合うようになる」ことが、一番の望み。震災前よりもっと、大槌町が好きになった。

京子さんは今でも、落ち込んだときは、嵐の曲を聴く。お気に入りは「果てない空」。聴いているうちに、自然に涙があふれる。絆館にも松潤の写真を飾りたかったが、老舗旅館とのイメージのギャップがありすぎると娘に止められ、飾ることができなかった。「いつか、嵐が、小川旅館に来てくれないかなあ」。本物の松潤に会えたら「死んでもいい」と思っている。

小川旅館:http://ogawaryokan.jimdo.com

記事=田中 輝美写真=末澤 弘太 / 木村愛