津波のことは、不思議と思いもしなかった

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • LINEで送る

大槌町赤浜 黒沢有香里 53歳

「大きな地震があったり、海の水が引いたら、逃げっぺし」って、子どもの頃から言われていたのに、津波のことは、不思議と思いもしなかった。今思えば、揺れの大きさで頭はパニックになってただろうし、津波に慣れていたんだろうね。これまでは、津波が来ることはあっても、高さは数センチとか数十センチで、沖の牡蠣棚がくるくる回ったのを聞くぐらいだったから。

亡くなった同級生らとともに写した写真を見る黒沢さん

震災発生時は、勤務先の大槌病院の1階にいたの。患者さんの処方箋を、調剤薬局にファクスする仕事でね。院内を歩いていたら、突然揺れたの。普段は動かすのに苦労する机が、飛んで歩いていたんだもん。とっさに頭の上にあるテレビを倒れないようにおさえていた。揺れが大きいから、薬局の先生が「何してる。そんなのはいいから、早く外に出て」って。外に出たらアスファルトが波打ってたもんね。それを見て「アスファルトって波打つの」って思って。

揺れがおさまって、すぐに思ったのは港町にある実家のこと。病院から海側に歩いて15分くらいかな。足の悪い母が一人でいるから、様子を見に行こうと思って、病院の人に言ってから向かったけど、病院を出てすぐにある橋を渡っていたら余震で橋が動くわけ。この橋が落ちたら、私死ぬんだって思った。もし、母が無事に避難していて、私が死んだら、親は悔いを残すだろうなと思って、病院に引き返したの。

黒沢さんが勤務していた大槌病院

病院に戻ってから、大津波警報を2回聞いたのかな。私は薬局の人たちと外で話をしていたんだけど、病院職員の人たちは避難訓練通りに、患者さんを3階に上げていて、私たちも3階へ上がろうってなって。階段を上る途中に近くの川を見たら、もう溢れる寸前だった。その時、隣にいたおじさんが「おれの家が流れてきた」って。もう一人のおじさんは「溢れっぞ。見んな。見んな」って。そう言われて3階へ上がって2、3歩歩いたら、下の方からバリバリって音がして振り返ると、さっき上ってきた階段から砂煙が上がってね。あと少し、上るのが遅かったら、私も巻き込まれていたのかな。

津波が運んできた瓦礫が、2階と3階の踊り場まで来たから、患者さんを屋上まで上げようってなって、私も手伝った。一息ついた頃には、辺りが薄暗くなってたから、午後5時近くなってたかなぁ。屋上から町を見下ろすと、一面水浸しでね。海側にある法華寺さんから火が出てて、1回大きな爆発もあって。一晩中、次から次へと爆発する音が聞こえてた。

津波の水も落ち着くと、患者さんらと3階へ戻ることになってね。屋上は寒いでしょう。患者さんをベッドに寝かせて、高齢者の人たちは、空いたベッドのマットレスを床に敷いて寒さをしのいでた。私たちは比較的若い部類だったから、カーテンを引っ剥がして、体に巻いたり、1カ所に集まったりして少しでも温まるようにしてね。変な話だけど、火事が起きている町の東側に面した部屋に集まる訳。外が明るいでしょう。やっぱり、暗い部屋よりも明るい方へ行こうって。そこで少しでも休もうって回りにいた10人程の人達と言い合って横になるんだけど、余震の度に目が覚めてねぇ。

私がいた場所は病院だったから、備蓄してあった水が、ちっちゃなコップ1杯ずつ、みんなに配られて。私は1型糖尿病で、インスリンを携帯してたの。職場の人がそのことを知ってたから「具合が悪くなったら、食べて」ってあんぱんのひとかけらをくれたり、飴玉を取っておいてくれたりして、ありがたかった。

翌朝になって回りを見渡すと、やっぱり町が水浸しになってて。現実に、水浸しの光景を見ているんだけど、なんか映画を見てるみたいな。すごく変な話だけど、なんか冷めてた。「何これ?」って感じだったの。そうしたら、隣に来た人が言ったの。「私たちも被災者になっちゃったね」って。私は「はぁ」って思っただけで、実感はわかなかった。

私が実際に目にしたのは、アスファルトが波打ったり、車に乗ろうとした人が、車ごと揺さぶられたりしたところぐらいだもの。病院の3階や屋上へ避難した時には、既に町は水浸しになって、家も流されてて。病院内では、患者さんを運ぶ手伝いとか、目の前にあることをしていただけ。お腹がすいたとか、のどが渇いたとかも感じないし、茫然としてたかもしれない。

だから、助かったとも思わなかった。震災翌日以降に、回りで「あの人がいない。この人もいない」って聞くようになって初めて「あぁ、私たちは助かったんだ」って思った。同じ会社に勤める同級生のことを聞いても、同僚は何も言わないの。まだ、震災直後だったし、どこかへ避難しているんだろうと思ってた。ところが、結局見つからなくて。私は病院へ避難していたから、自然とみんなも避難できているんだろうと思ってた。思考回路が変になっちゃってたよね。

翌日の朝は、歩いて赤浜地区にある自宅へ帰ろうと思って、一人で外に出たんだけど、堤防は瓦礫だらけで、とても歩けるような感じじゃなかった。でも、少しすると、内陸にいた薬局の社長が車で迎えに来てくれて、町内の高台にある知り合いの家に行ったの。うろ覚えなんだけど、重機があって、町の大きな道路は瓦礫をどけてくれてたような…。夕方になって赤浜の自宅に帰ってみることにして、近くまで送ってもらって、自宅と母の無事を確認できた。

次の日は、自宅近くで炊き出しがあって、各家庭から食料を持ち寄ってね。男の人たちは「道路を作る」って瓦礫をどけてね。また、夕方になって一息ついたら、沖へ漁に出ていた主人のことが急に心配になって。震災が発生した午後3時前は、水揚げの時間だから港にいたかもしれないと思ってね。不思議なものだね、一番大切な人を一番に思わなかったなんて。

夫は3日後ぐらいに帰ってきて聞いたんだけど、震災があった時は、沖にいたんだって。それで、携帯電話を通じて県外にいる甥っ子や姪っ子と連絡をとったり、テレビでニュースを見たりしてたみたい。陸を見ると、火事で真っ赤だったこともあって「私は死んだな」って思ったんだって。「これはただ事じゃない」って。

私は家族も家も無事だったからね。自宅から見える光景は、高台にある住宅地ってこともあって、震災前と変わらない。ここにいれば、何も見えないから。この頃、夢だったんじゃないかって思うことがある。だけど、家から外に出て、港の方へ下ると瓦礫だらけじゃない。泣けてくるのよ。

海辺にある堤防は、子どもの頃の遊び場でね。堤防の上から海を見ると、きらきらと光って綺麗なのよ。好きな光景だなぁ。だけど、堤防の内側にいると、海は見えないじゃない。住宅が多い町の方でもそう。だから、震災があった時に、近くにいた人は津波が来ることが分からなかったんじゃないかな。堤防の上を漁船が越えるのを見て気付いた人もいるって聞いたしね。堤防が透明だったら、どれだけの人が助かったんだろうって思う。

堤防の高さや避難先は、1960年のチリ地震津波の被害が基になっているんだって。自宅近くにある夫の実家は、チリ地震では被害を受けなくて、家族では「ここまで津波が来たら、大槌は終わりだな」って言ってたの。今回は、夫の実家も流されて…。いつも想定は外れるんだね。

<取材を終えて>
「他県の人にはすごく話しやすいの。当時はあぁだったよ、こうだったよって、時間も気にせずしゃべってしまうのよね。地元の人とはあまり話さないし、話せない」。実感が湧かず、思いや認識を共有しきれないと感じていた今回の取材で、頭から離れない黒沢さんの言葉。自分のような部外者が、被災地で取材して記録する意味を見いだせたような気がした。

記事=田淵 浩平写真=倉田 匠 / 田淵 浩平