逃げる人は連れてくからって裏山から上がってったのさ

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大槌町上町 佐々木清三 61歳

地震が来た時は、自分の店(理容室)にいたんです。ちょうどお客さんがいない時でよかった。最初はゆっくり、ゆっさゆらっと揺れだした。次にぎゅんとねじれるように揺れて、一度やんだと思ったら、また下からすごい揺れが来た。これはやべえなと、自宅が近くなので一度帰った。家の中はぐしゃぐしゃで、小鎚川を見に行ったら、底がさびが上がったように赤くて。これはおかしい、と逃げる時のために今度は車で店に戻ったんだ。

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再開した理容室で常連客の髪をふく佐々木さん

それで店を片付けてたら、消防の人が「3mの津波が来る」って言って回りだした。その前に津波警報が流れたけど、すぐ停電になって使えなくなっていたから。そのうちに店の前の通りが渋滞し始めた。道路沿いの電柱は地震で倒れてたけど車は通れたのが、逆に良くなかったんだな。逃げるのにこっちに来るのは死にさいくようなもんだ(佐々木さんの店は津波浸水想定区域内)。車置いて高台に上がれ、って声かけたけど、車から降りた人は2人だけだった。
 
そうこうしたら「6mが来るぞ」ってなった。いよいよ逃げようと、店の裏の実家のおふくろと兄貴に声かけて、出てくるのを待ってた。でもなかなか来ない。したら河口の水門の半分くらいの高さに、真っ黒い水が、黒い壁が見えて。家ぶっ壊しながら水が来てたから、これはもうこの足ではだめだなと、実家の2階に上がった。2階で、倒れたタンスの背におふくろ乗せて、俺も反対側に乗ってバランスとって。兄貴が上がってきた、その瞬間にガチャーンってドアのガラスが壊れる音がして、水が2階の半分くらいまで一気に上がってきた。すげかったっすよ、水が、黒い水が。タンスの空気でバランス取ってるから浮くけど、このまま水が上がれば天井につぶされる、その時は天井を破ろうと兄貴と話した。いったん水が落ち着いたんで、天窓を開けたけど、開けても勝手に閉まるんだよ。もう家が傾いてたんだ。

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町役場になった旧小学校建物(右端)のすぐそばに立つ、佐々木さんの店(左プレハブ)。震災前、店のある場所は商店街だったが、現在はほとんどない

何とか窓開けたら、隣の屋根が見えたから、まず俺が渡った。次がおふくろ、でもあせってるから渡る時に水の中に落ちて、半身つかってようやく渡った。最後は兄貴、という時に家がぐらっと揺れた。兄貴はあわてて水に飛び込んで、こっちの屋根に引き上げたら、見てる前で、どぅあああんって家が向こう側に倒れたのさ一気に。水がこっち来たもんだから、今度は一気に反対側に押し返されたような感じにして。うちばっかりじゃなくて、火ふいたプロパンガスとか、他の家もみんな反対側に流れていった。

がれきの中で人がうごめいて「助けて」って手振ってんだけど、助けられるわけねえもんな。同じ水の目線で見てると、中に人がいるのが見えて、いたたまれないんだよ。おふくろはパニクって、どこかに逃げなきゃって、逃げ場もないのに屋根の上歩こうとするし。ああいう時は、呆然としてるのは死ぬってことだから、次は何するかって常に考えないといけない。俺は、とにかくがれきの中で使えるもの使って渡ろうってそれだけ考えてるのに、人が流されてくのが目に入る。見る間に人が見えなくなっていく。がれきは生き物なのさ、見てればただ流れていくけどな、間近で見るとがれきは流れながらその中で動いてるんだよ。もう、見てて声になんねんだ。

運が良かったんだ、俺たちは最高に。俺たちのいる屋根と小学校の間に、ちょうど大きい家が流されて入ってきた。屋根にぶつかったらおしまいだと思ってたのが、ちょうど間に入ってきた。学校の3階にいた店の常連のお客さんが気づいてくれて、脚立をまっすぐにこの家の上渡して、それで3人で3階に行ったんですよ。だけど周りじゃガスのにおいはしてるし、山には火が入っていた。小学校来れば安心だって言う人もいたけど、山に火が入って燃え広がれば学校にも火が入る。明るいうちに逃げようって俺は声をかけた。逃げる人は連れてくって裏山から上がってったのさ。

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小学校から高台に避難するため登った裏山の急斜面。記者も登ってみようと2度挑戦したが、つかまる手がかりもなく落ち葉に足を取られ、途中で断念した

裏山は、昔は隧道があって道路があったけど、長年時間が経ってるし、落ち葉もかぶってるからわかりにくい。先頭で上がって、安全な道を作ってから、後はロープを伝って、ばあさんも子供連れもみんなで列になって上がっていった。下から押してやったり引いてやったりしながら最後に上がった時は、疲れて桜の木を枕にして動けなくなったよ。俺裸足だったんだよ。

学校から裏山に逃げる時、板の下に人が、足が見えたのさ。だけどそんなこと口に出したら、年寄りが腰ぬかす。「みんな、絶対下向かねえでまっすぐ見てけ」って言った。一人の年寄りがここの板おかしいって言っても「いいから行け、見なくていい」って。しょうがないのさ、他に歩きどころがねえんだもん。裏山上がる時も、何でこんなことしてるんだ、と思ったけど、誰かがやんなきゃいけない。ここまで来たらみんな生かさねばなんねえじゃん。裏山から道を歩いていって、高台の中央公民館に行った時には地震から3時間くらいたってたか、もう真っ暗だった。
 
その日は中央公民館で段ボールに寝て。寒かった。ジャンパーひとつで、携帯と時計だけ入れて逃げたから。夜は、さっきの小学校も、高台の下は全部火の海になってた。ただ呆然と見てるだけで、地獄みたいだったね、本当にさ。あとはもう余震が来る、来るたびみんな騒ぐ。あの人は助かったか、この人は助かったか、て思うんだけど、どうしようもない。助かったのが申し訳ねえなって感じで。下は真っ黒けでないものもなくて。

2日間めし食わなかったけど、頑張ったんだよ。水が出ないから便所が困るだろう。若い衆集めて、がれきからポリタンク探して水を持ってきた。だけどみんな我慢してた風で、公民館のトイレはすぐいっぱいになっちゃう。次はトイレを作ろうって、避難してた人に大工さん見つけて、公民館にある板を出してもらって、学校に降りてビニール袋をもらって、みんなで全部作ったんだ。3日目にようやく小さいおにぎりが一つ、そのうちに、自衛隊の支給や炊き出しが始まって食うにも困らなくなった。
 
1週間くらいで盛岡から娘が迎えに来て、その後4月の終わりまでは盛岡にいたんだ。でも娘の話じゃ、毎日同じこと言ってうなされてたらしい。逃げろーとか、俺が上げるから、助けるから、って。夢も覚えてるよ、流されていく人の夢を見るんだ。現実は全然助けられなかったのが、夢の中は助けられるんじゃないかって、騒いでるんじゃないか。いやなもんだな。
 
店は、やるならここしかないから、元の場所にプレハブで始めたんだ。町の人は「次津波来たらどうしますか」って言ったけど、俺たちは自分でやるよ。でも年配のお客さんは、小学校ではしごかけてくれた大野さんくらいになっちゃったな。亡くなったのか、遠くで来られないのかわかんないけど。

ジッポライターが好きでね。今の店でも飾ってるけど、前は50個くらいあったのを全部流された。一つだけ、開店前の保健所の検査の日に、草の中から袋に入ったのが出てきたんだよ。真空パックみたいなのに入ってるから使えそうだったんだけど、記念だなんて思えるか、くっそーと、保健所の奴にあげたんだ。「いいよ俺の今日の検査の日が出発だから」って。…今思えば惜しかったなあ、今思えばね。
 
<取材を終えて>
佐々木さんは取材後「話すのは一度でいいな」とつぶやいた。並んで座っていたが、話すほとんどの間、遠くを見ていた。今だから話せるようになったことがあるとはいえ「証言」で記憶を手繰り寄せるのは、大きな負担だ。被災直後の負担ははかり知れない。その負担をかけて何を伝え、学ぶのか。取材の意義と姿勢を改めて考えている。

記事=結城 かほる