自分が生きていることも不思議だし、死ぬってことは本当に身近だよ

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大槌町大ケ口 小松則明 53歳

町議をしているのですが、その日は午前中に町議会で予算委員長を決め、午後は休会でした。仕事(建設会社)も忙しくなかったので家の居間でお母ちゃん=妻・志知子さん(当時51)=と横になってテレビを見たり、うたた寝をしていました。高校2年の次女=彬乃(あきの)さん(当時17)=も春休みで、クラブ活動(美術部)も休みで家にいました。今までに体験したことのない揺れで私はテレビ、妻は食器棚を押さえました。次女も2階から降りてきました。

消防車に乗って最初に向かった大槌町漁協支所わきの水門。液状化でなかなか閉まらなかった

私は消防団員でもあるので、水門を閉めに行きました。(水門を閉める)基準は確立されていませんでした。金﨑拓也(建設会社の専務)と2人で最初に向かったのが大槌町漁協大槌支所脇の水門です。だけど、液状化で土地がゆがみ何回トライしても閉まりません。70~80メートル離れている小槌水門を終えた消防本部員らが応援に来て、閉めることができました。そこから300メートルほど離れた大町公園の水門を閉めると、近くの安渡橋や大槌橋で人が立っているのが見えました。水位がばーって上がるのが分かったんです。堤防の脇を消防車で走らせ、マイクで出来る限り「津波が堤防を越えて来るぞ。逃げろ逃げろ」と叫びました。助手席の金﨑が大槌川の水位を見て「もう、だめだ」と言いました。1人でも多くの人を助けたいと、ハンドルを南の街中に切りました。

堤防から水が溢れたのが見えたんですよ。数十メートル先の北には避難所の蓮乗寺があったので、腹を決めて波にぶつかっていきました。車は浮き、知っている人が飲まれていきました。目が合っても何も言わないで、飲まれていったんです。走って逃げるばあちゃんが倒れて、助けようとした娘さんが飲まれる、それを助けようとした人にも波は被さる。怖いというより、大きな力に太刀打ちできないんです。

気付くと、蓮乗寺の石垣に消防車の助手席側がぶつかっていました。車にはサイドステップがあったので、助手席と石垣の間にすき間ができました。金﨑が這い上がり、助けてもらいました。消防車の屋根の上で「ああ、おおづちはだめだぁ」と言いました。水がまた上がってくるので、垣根を昇ったんです。物を取りに戻った人は皆、流されました。徒歩何分の所に避難所があり、安心してしまったんです。

無線は混線して、つながりませんでした。我々、消防団員には情報が届きませんでした。寺の脇の道からぼわーっと青い火が出ました。油臭かったです。城山に火が付き、本堂にも火が迫る中、お墓の方に約50人全員を移動させ、さあどうする、ということになりました。本堂の赤いじゅうたんを出したんです。防火マットなんです。幅1メートル20センチぐらいで、1巻きが10数メートルある。何枚もひっぺ返して、「上から火の粉が降っているから被れよ」と指示しました。本堂は完全に焼け尽きて、街からは爆発音が聞こえて火の海。すると、雪が降ってきたので、燃えた寺の木材で暖を取りました。

消防署員に、城山の上にある災害対策本部が入る中央公民館まで行ってくれと言いましたが「(経路が)分からない」と。山の地形で、自分は位置が分かります。俺しかいないと思いました。夜遅い時間に公民館に行くと、町長がいません。消防署員に「蓮乗寺が孤立している」と伝えました。服が濡れて寒かったので、ごみ袋に穴を開けて頭から被りました。

翌朝6時ごろ、蓮乗寺まで(消防署員が)向かえに来てくれました。皆の腰にロープを結び付けて山道を登りました。お年寄りは「坂上がれねえ」と言いますが、「生きているんだからゆっくり上がれ」と言いました。俺の足で30分かかんないで行けるところを、2時間くらいかかりました。中央公民館に入ると、皆汗かいているのに最初の言葉が「あったけー」と。中の人は「寒い」と言っているのに俺らにとっては「あったけー」。災害対策本部に行って、町長流されたよって聞きました。

蓮乗寺の避難者をロープで結び、中央公民館への山道(右側)をたどった。照明灯カバーは今なお、当時の火災の熱で変形したままだ

3日目、夜明けの時に大槌病院の近くで、お母ちゃんの車があったんです。開かないので車を解体して、顔見るとお母ちゃんでした。後ろの席ではジャック(ペットの犬)が挟まっていました。同級生がお母ちゃんが家に戻ったのを見ました。きっと、犬を連れに戻ったのさ。うちの娘は江岸寺の辺りにいたって聞いたんです。でも、誰が見たんだが、真相は分からないんです。

行方不明者の捜索活動をする中で、親と子の絆を感じることがありました。震災から約10日後、カネマンさん(パチンコ店跡)に流れてきた小型船の下で、スーパーレスキューの人たちが、泥の中から若いお母さんと1歳ぐらいの子どもの遺体を見つけたんです。お母さんは子をしっかり抱えて、子もきっちりつかまっていてさ。きれいな状態で見つかったんです。そこにいた7人が皆、泣きながら作業をしました。俺はその時、何でこの人たちは亡くならなきゃならないんだって思ったさ。

自分が生きていることも不思議だし、死ぬってことは本当に身近だよ。俺は1回死んだ。生き残った人のためにやれることはやるべってさ。お袋も親父も若い時に亡くなりました。地元のじいちゃん、ばあちゃんは俺のお袋、親父みたいなもんでした。何があっても、この人たちを守らなきゃならねえ。生活再建っていうけど、老人に家は建てられねえのさ。だから、でっかいアパートをここに作るのさ。

<取材を終えて>
取材後、小松さんが財布から2枚の運転免許証を取り出した。小松さんと志知子さんの物で、顔写真は向かい合うように重なっていた。震災からちょうど1年後、志知子さんの財布が発見され、免許証が残っていた。いまだ彬乃さんの安否は分からない。「(震災から)丸2年になるけど、彬乃の何かが帰って来ればいいな」。娘が戻るまで妻の納骨は行わないという。

記事=斉藤 明成写真=斉藤 明成 / 松本 裕樹