愚痴人生を変えた津波 イタリア料理店シェフ・木村省太さん

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • LINEで送る

テラスからは津波被害で土台だけが残った土地と、その先に大槌のシンボル蓬莱(ほうらい)島が見渡せる。2月14日に大槌町赤浜にイタリアンレストラン「バールリート」をオープンさせた木村省太さん(28)。女性を中心に人気を集め、予約が取れないレストランになった。「かっこいいじゃないですか、イタリアンって」とやんちゃな笑顔を見せる木村さんだが、震災が起きるまでは、職を転々として、愚痴ばかりだった。

店外に立つ木村さん。周囲は津波被害で土台だけが残っている

漁師町である赤浜地区。港から集落へ入ると木造平屋建ての店舗が見えてくる。木村さんのレストランだ。木のぬくもりを感じながら店に入ると、3席分のカウンターと4人掛けのテーブルが3つがあり、ジャズの音楽が流れる中、女性客が料理を楽しんでいた。テラスや窓からは、NHK人形劇「ひょっこりひょうたん島」のモデルになったともいわれる蓬莱島が見える。「想像以上にお客さんが来てくださっています」。昼も夜も客足が絶えず、木村さんは忙しそうに動きまわっていた。

木村さんは、大槌町の隣の釜石市に生まれ、高校まで大槌で育った。もともと料理が好きだったこともあり、盛岡市の調理師専門学校に進学。しかし、卒業後、盛岡での就職先が見つからず、大槌に戻り、釜石のホテルの調理師になった。ここから、「若気の至りでした」と苦笑する、さすらいの人生に突入する。

お金をためるため、工場や老人ホーム、キャベツ農家、居酒屋などを渡り歩き、調理師以外の仕事も経験した。地元を出て、群馬、東京などを転々とした。群馬県嬬恋村のキャベツ農家で働いていた時は「草津温泉に軽トラ1台で向かっていました」と振り返る。そして、再び地元に戻って来て、県立釜石病院の調理師となった。そこで震災に遭う。

店内の窓から見える大槌町のシンボル「蓬莱島」

余震が続く中、患者全員を外に出す手伝いをした。布団を運んだり、非常食を配ったりもした。病院に寝泊りし、やっと大槌町に戻ることができたのは発生から3日後の14日だった。自分の母親や子どもの安否は分かっていたが、妻の安否だけは帰るまで分からなかった。町に戻ってようやく無事を確認できた時は「妻の車を見ただけで感動した」という。

その後、5月末で病院の雇用期限を迎えて退職。雇用の継続がかなわなかったため、3ヶ月の失業期間を経て、大槌保育園に勤務。子どもたちの給食を作った。転機を迎えたのは、「料理の勉強をさせてもらえる」と聞いて、12年4月から、地元で復興に向けた様々な活動を展開している一般社団法人おらが大槌夢広場が経営する、「おらが大槌復興食堂」で働きはじめたことだった。

復興食堂では出会いに恵まれた。盛岡でイタリアンレストランを経営する下玉利元一さんに出会い、研修を受けた。「お前ちゃんと料理やれ」、「今やんなきゃ遅えぞ」と励まされ、修行に励んだ。勤務先の復興食堂については、「ずっとあるもんじゃない。人を育てる場所だと思っている」と次第に独立を考えるようになり、12年9月に決断した。

カウンター越しにこれまでの経緯を語る木村さん

最初に釜石市のホテルに勤務していた時に洋食を作っていたこともあり、その延長でイタリア料理に決めた。シンプルだけど奥の深いところに魅力を感じていた。何よりも、イタリアンはかっこいいイメージがあった。しかし、震災前から商売をしていたわけでなく、仮設商店街「福幸きらり商店街」には入ることはできなかった。何とか内閣府の助成金210万円を得て、震災後、町民の集まる場所作りを目指す、民間の「あかはまチロリン村プロジェクト」で建設された仮設店舗に入居することができた。

店の名前「バールリート」はイタリア語で、浜の食堂を意味する。開店に向けて、地元の仲間たちがチラシ5000枚を配って応援してくれた。その甲斐もあってか、店は開店当初から大にぎわい。木曜日が定休日になっているが、店内で木村さんが発注作業をしていると、定休日を知らない客が訪れることもあり、「ドキドキして隠れちゃう」とおどけてみせる。昼と夜の時間帯を自分とスタッフ1人、バイト2人のローテーションでまわして、常時2人で客を迎えている。平均年齢は22.5歳。「できるだけ若い子に入ってほしい」と、若者に対する思いは強い。

店の人気メニューはピザ。マルゲリータやベーコンルッコラ、生ハムなどが好評だ。店を閉めている間の仕込みに時間をかけている。ピザの生地作りでも、発酵させ、空気を抜き、形成して冷蔵庫で休ませるというプロセスを丁寧にこなしている。「おいしくないものを出したら終わりです。妥協はしません」。お酒もイタリアのビールや日本酒、焼酎、ワイン、シャンパン、ウォッカなど、一通りそろえた。

客層は、40、50代の女性が多いという。他の仮設店舗では、男性向けの店が多い中で、「女性同士が訪れる、おしゃれな場所にしたかった」と狙いを語る。料理だけでなく、店の雰囲気にもこだわった。カウンターから新たに作り、色も塗った。特に、大工をしている先輩に作ってもらったカウンターは「愛がめっちゃつまってますね」とうれしそうに語る。

町の将来については、やはり若い人たちに輝いてほしいと願っている。特に震災後、町から人が離れていったことが気がかりだ。「自分たちのような20代、30代がいい町にして、人がいっぱい来てもらえるようにしたい」。今回の開店にはそんな思いもある。高齢化の進む町では、なかなか新しい動きが生まれにくい中、「チャレンジの見本になりたいという思いがあります」。

このチャレンジに至るまでは紆余曲折を経た。病院勤務で地元に戻って来てからも、また出ようと考えたこともあった。しかし、「仕事もないし金もない。引っ越す金もない」という状態。そのまま働き続けていれば、「だらだら生きてきたんで、ずっとダメな感じでしょうね。『給料安い』とか『つまんねー』とか環境のせいにして愚痴ばっかり言ってましたから」。そんな愚痴も今では、「忙しくて体力がもたないですよ。睡眠時間がほしいですよ」とちょっぴり前向きな愚痴になった。

記事=松本 裕樹 / 新志 有裕