全速力の漁船で7回の津波を乗り越えた

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大槌町大槌 木村辰喜さん 65歳

昼食を食べた後の午後1時半ごろ、弟と小舟で海藻のまつもを取りに行きました。べた凪で、暖かい日。船着き場に行く途中、下水の排水溝の近くに、季節でもないのに真っ黒な小さなボラの大群が見えました。「おい兄貴、季節でもないのに、なんでボラがいんだべなあ」。そう弟に聞かれましたが、理由はわかりませんでした。船を泊めている安渡(あんど)地区は、カモメや「安渡ガラス」と言われるカラスで有名です。あの日はボラが水面近くに多くいるにもかかわらず、カラスもカモメもいませんでした。

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木村さんが小舟から漁船に乗り換えた安渡の港近く。漁具を置いていた番小屋は津波で流され、今はがれきを運び出すダンプカーが頻繁に行き交う。

干潮は午後2時ごろ。安渡の港から船外機付きの小舟で、大槌湾の入り口近くにある「松島」と呼ばれる岩場に行きました。全長4メートルほどの船でした。最初の場所から移動して、別の場所で海藻を採り始めてしばらくすると、大きな揺れを感じました。以前、サメのはえなわ漁に出ていた時に大きな地震があったんですけど、大きい地震だと海の上にいても揺れがわかるんですね。あの日は船から降りて、岩場にいました。崖にはひびが入って、軽トラックぐらいの大きな岩が崖から落ちてきた。すぐに津波が来ることを考えた。「これはヤバイ」と思って、すぐに小舟に飛び乗り、安渡の港に向かいました。8馬力の小さな船外機で、全速で港に向かいました。不思議なことに普段は青い沖の海が、緑っぽくみえた。戻る途中、赤浜から沖に出る船とすれ違いました。

20分ほどかけて安渡の港に戻り、弟と2人で所有しているサンマ漁船「第十八早池峰(はやちね)丸」に乗り換えました。全長20メートル、エンジンは1000馬力あります。サンマやマグロのはえなわ漁に私たちが使っていた船で、10年ほど前、1億5千万円ほどかけて買ったものです。その船を守るため、サンマ漁船で沖に向かおうと思いました。

小舟を捨てて、急いで漁船に2人で飛び乗りました。10万、20万円ほどの小舟なんかたいしたことはない。そのまま捨てました。サンマ漁船は5本のローブで港に係留されていた。前方と後方の4本のロープは外せたのですが、後方の最後の1本が外せなかった。すでに潮が引き始めていて、港の水位が下がり、ロープがぴんと張ってしまって外せなかった。その時、ふと足元をみると、たまたまさびた出刃包丁があったんです。それで4、5回ロープをこすったら、ロープが切れました。

その後は、全速力で安渡の港から沖に向かいました。引き潮のスピードはものすごく速かった。自分たちはエンジンが壊れるくらいのスピードで沖に向かいました。(「ひょっこりひょうたん島」のモデルとされる)弁天様の小島の手前で、1回目の津波が来ました。津波が小島にさしかかると、小島の松の木が見えなくなった。船が1回目の津波にさしかかると、船は急角度で傾きました。うねりの大きいような感じ。1回目の津波は特に高かった。2回目、3回目の津波の波が追いついて、波が重なっているようにも感じました。さらに沖に向かう途中、建物の上に乗り上げて有名になった、遊覧船はまゆりが流れているのも見えました。

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木村辰喜さんが弟と津波を乗り越えた漁船「第十八早池峰(はやちね)丸」の写真。船は廃業を機に売却した。

沖からは、わかめの養殖棚が流れてきて、そのロープにスクリューがからまったら大変だと思い、必死でよけ続けました。多くの船は自分たちより沖に逃げており、回りに船は見えなかった。私たちより後ろにいた船がひっくり返っているのが見えました。たぶん、いかだのロープにひっかかったのだと思っています。沖に逃げている船は、自分たちが最後でした。全部で7回の津波を乗り越えたのを覚えています。

沖に向かって2、3時間走って、ようやく「助かった」と思いました。すでに沖は暗く、大槌の町の方を見ると、炎で空が真っ赤になっていました。船の中を探すと、漁の時の食事用のカップラーメンが数十個と、「大五郎」の大きな焼酎のペットボトルがあった。その夜はどうすることもできずに、弟と2人で焼酎をめちゃくちゃに飲みました。

次の朝、大槌の港に戻ると、海は穏やかで濁りも引いていた。海の色はマリンブルー。でも、町はすっかり変わっちゃっていて。安渡の自宅は全滅。母サトエ(89)は、盛岡の病院にたまたま行っていて無事でした。他の家族も心配でいてもたってもいられなかったけど、携帯電話もありませんでした。陸に戻って、がれきだらけの町を避難所に向かいました。でも、がれきの釘だらけでうまく歩けない。しかも、朝になっても酔いが覚めていませんでした。何とか避難所に着いた時、まだ酔っぱらっていたので知り合いに怒られました。

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仮設住宅の居間で話をする、母サトエ(左)さんと木村辰喜さん。

私たちが偶然助かったのは、遠野の早池峰神社の御利益だと思っています。亡くなった父も漁師で、父の乗っていた船も「早池峰丸」。父の代から、安渡の港には漁の道具を置く番屋がありました。その番屋の壁に、津波に関する昔からの言い伝えが張ってあり、私も小さい頃から見ていました。陸でイワシが見えたり、普段捕れない魚が捕れたりしたら津波が来る。オヤジが言っていたことは当たったなあと思いました。震災の前の年には、港近くの排水溝でイワシがいっぱい見え、子どもたちがタモでイワシをすくっていました。震災当日の朝は、カモメもカラスも一羽もいなかった。津波にはいろんな言い伝えがあるけれど、そうした言い伝えを研究して欲しいなと思います。

地震があったら、早く高い所に逃げるしかない。自分は、船を守るために沖に出た。船は自分の命であり、財産。船で沖に逃げるかどうかは自己判断だった。自分で自分の命を守るしかない。でも、もしもう一度同じようなことが起きても、また船で沖に逃げると思います。

震災から20日後、廃業を決めました。港には番屋と倉庫もあったけど、津波でサンマの設備から何から全滅でした。震災の前までは、マグロやメカジキを追いかけて、1カ月ぐらいかけて小笠原や八丈島などの近海に漁に出かけていた。回りの人はみんな「頑張れ」と言ってくれたけど、倉庫も土地も手配がつかない。しかも、あらためて道具を買うとかなりの金額がかかる。あいにく借金が残っていなかったので、やめても人に迷惑をかけるわけでもなかった。無事だった船も売りました。

今は大槌の仮設住宅で母と住んでいます。津波も乗り越えたし、人生に悔いはありません。アルバイトと年金で、平穏に余生を暮らそうと思っています。私は人生の最後を「千秋楽」と呼ぶようにしています。花を持って千秋楽を待ちたい。

<取材を終えて>
「津波を乗り越えて助かった後、沖で酔っぱらうまで弟と酒を飲んだ」。生きるか死ぬかの瀬戸際をさまよった直後としては、意外な行動に聞こえた。でもよく考えると、それだけ想像を絶する状況だったのだと思う。私は震災3日後に大槌に取材で入った。一面のがれきに覆われた暗がりで、山火事の火だけが赤く燃えている状況は、21世紀の日本とは思えなかった。木村さんの話を聞いて、その非日常の光景を改めて思い起こした。

記事=五十嵐 大介