波が桜の木の上から落ちてきて、さらっていった

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大槌町赤浜 阿部イチさん 82歳

おれの家は水門のそばだったんだ。家の戸を開ければ道路で、その外は海なんだ。そんなところにいたから、いつか流されるとは思ったさ。

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阿部さんが3度の津波と引き波で流された旧赤浜小の体育館裏。「助けてって一度しか言えなかった。よく助かったなあ」

家は昭和35年(1960)にチリ津波があって、そのすぐ前に建てたんだよ。その時も津波は入ったけど、そこに建てて暮らしたの。4月に建てて、5月にチリ津波で、7月に息子が生まれて。小さい家だよ、建坪27坪の平屋でね、息子は一人っ子で、父さん(夫)と親子3人で暮らしたのさ。父さんが元気な40年、亡くなってもう十数年。それを持ってかれたわけだ。家は古いからいいの。ただ50年働いたものが全部あそこさ入ってたんだ。 

地震が来た時は、家でお茶っこしてたんだ。寒い日で、卵を売る人が来たので外でそれを買った後、友達があんたの家行ってあったまろうって言うから。ああいいな、やっぱり寒い日はお茶っこいいなって思ってたの。もう一人の友達が、こんにちは、ってぬっと扉を開けて、足を入れた途端に地震が来たんだ。

地震でも道路は割れてなかった。だから、いったん揺れが止まった時に、友達は少し家が離れてるからと走って戻っていった。それを見送っていたらまたぐらぐらと来てね、おっかなくて扉押さえてしゃがんだよ。

ここは赤浜小学校が避難所に指定されているんだ。1週間前の3月3日にも練習があって学校へ逃げたから、そっちに行くことにした。避難用に大きいリュックに要るものを入れて座敷の奥に吊るしていたんだけど、ああいう時は忘れるんだな、何だっペ何だっペと、茶の間と座敷を3度4度と行ったり来たりしてるうちに、時間が経ってしまった。それで財布とか入った普段のリュックに父さんの位牌入れて、その日買い物した袋持って車(カート)押しながら家を出た。うちの前の水門でまだ作業してる人もいた。海岸から一本入った道路を行ったら、誰にも会わなかったな。みんなもう逃げてたんだろうな。

校庭さ着いたら、中に入らないで5、6人年寄りが外にいたのさ。おれみたいに車押している人が立ち止まっていて。おれも、ああやれやれと安心したのね。のんきにしてたんだな。早く体育館さ入れば流されなかったのに。

体育館に近い方から2番目の桜の木のところにおれはいたんだ。波が来たぞって他の人が逃げてきたんだけど、その時はすぐ分からなくて、何をしゃべってるんだろうなって振り返った。その時だ。音もなくすっと水が膝の高さまで入ってきて、転ばされたの。みんな転んで、おれも手に持っていたものみんな離してしまって。もう立ってられない、つかまっていられないんだよ。

この校庭でね、1人亡くなったんだ。近所でよく話していた90歳近い人でね、自分が転ばされながらも見てたのを覚えてるよ。赤いチョッキを着ていてね。その赤が、ああっ、と思う間に、ぐるぐるとでんぐり返しみたいに波に回されて、校舎の方へ流されていくのが見えたの。

ようやく立った時、校庭の下に立っている2階建ての家が、目の前でにゅっと持ち上がった。家と家の屋根がくっつくみたいにぶつかって、家を持ち上げた波が桜の木の上にかぶさった。あの高い桜の上から、波が見えて、それが落ちてきて、おれかっこんでさらっていったんだよ。そこで気を失ったんだけど、後で聞いたら水が入ってきてからここまで、ほんの2、3秒しかなかったんだって。

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旧赤浜小の桜の木は10メートルはある。「桜の上から波が見えて、落ちてきた」

気がついた時は、体育館の裏で首まで水につかってた。足も立たない、周りにモノ(がれき)はいっぱい入ってるんだけど、立つところもすがるところもないんだよ。

そうしたら今度は引き波で、体育館の入口まで持っていかれた。待って!そっちに行ったら落ちる、落ちたら海まで行ってしまう、と頑張ってもがいたんだけど、またすぐ波が来て、さっきの体育館の裏まで流されて。それを3回繰り返した。

3回目にはもう疲れてね。その時も雪が降ってたし、寒さがひどいから体力がなくなってしまって。もう手も何も動かせなくなっていた。でもその時、それまで動かせなかった口が動いてね、それで口開けて、一度だけ叫んだ。たすけてー、って。

そうしたら、体育館の格子のある窓が開いて、人が顔出したの。ありゃ、って言うと、今度は体育館のドアが開いて、こっちゃ来い、こっちゃ来いって呼んでくれた。でも、こっちはもう流されるしかできないし、口まで水が来ていて沈みそうで、頭もぼうっとしてるから。他の人を連れてきて、2人がかりで手をつないで引き上げてくれた。

こんなんでよく助かったなあと思ったよ。後でお医者さまに言われたけど、おれはペースメーカーを入れていて、だから生きたんだって。おれが息してなくても、これが一生懸命働いてるから、すぐ上げられて人工呼吸されているようなものだったんだって。水を飲んだ感じもないんだよ、ただ呼吸しないで波に連れていかれた感じだったんだな。ただ体は傷だらけだったよ。左膝や腹には釘が刺さったりひっかかれた傷ができていたし、細かい傷は体中にあった。

引き上げられても、ものが言えなくてね。体育館の舞台で、ブルーシートにしっかりくるんでもらって横になってたの。体育館にいた人が、さらに山に逃げるからとおれの横を通っていく時に、頑張れよ、頑張れよって言うのは聞こえるんだけど、知り合いだからと名前を呼ぼうとしても、その発音ができないの。何だか分かんないけど、苦しいのも切ねえのもしゃべれねえの。

そこに何時間いたか分からない、夕方かな、男の人が来てね。ここに置かれないから、みんな体育館の裏からはしごで上がらせたって。おれは動けないから、おぶって上がってくれたんだよ。何とか上がって、投げられたみたいに地面に置かれたんだけど、その人が「おばあさん、ごはん食べすぎだあ」って。おれ体が大きいから、でも重いって言わずそういう言い方したんだよ。やっと目を開いて見てみると、その人笑ってるんだ。はずみで、声もでないけど、おれも笑ったの。

この人、知らない人でね。他の人に聞いたら、赤浜小に用があって来ていた大船渡の人らしいんだけど。他の人避難させて、残った人を見に来て、おれみたいな体の大きい人おぶってくれてね。お礼言いたくて、ずっと尋ねてんだけども、誰だか分からないままなんだ。

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自宅から赤浜小まで避難した道を再びたどる。道沿いは住宅がひしめき合っていたが、今は土台も撤去され、海まで見通せる

夜が明けて翌日、ヘリで宮古(岩手県宮古市)に運ばれたの。おれはペースメーカーも入れているし、糖尿もあるから。それでヘリに乗る時に、父さんのお墓が見えた。学校は波が来て降りられなくなっていたから、お墓のところから吊るされて上がっていったのね。ああ、父さんに守られてたんだなと思ったよ。

でも宮古の病院も人がいっぱいで、診察や治療もなかなか受けられない。死ぬような思いをすると、頭がこんがらがって、やっぱりものも言えないんだねえ。リュックに診察券や障害者手帳も入っていたけど、それを持っていることも言えなかった。知っている人は誰もいないし、おれはトイレも一人では行けねえし、何とか赤浜帰してけろって頼んだけど、大槌はもっとひどいからここにいろって言われて帰れなかった。

それで、宮古には息子がお世話になって親しくしている先生がいたから、連絡をつけてくろと頼んだんだ。でも電気がないから、1日に1度しか連絡しないんだね。5日目にようやく連絡がついて、先生から連絡もらった息子が、仙台から飛んできたよ。怒られたあ。油(ガソリン)がない中で、さんざん探し歩いたんだって。

ヘリでどこに運ばれるかは乗ってから決まったから、おれがどこに行ったか誰も知らなかったんだね。本当に怒られたよ。死んだといえばあきらめるけど、死んだも死なないもわからないで、生きてるんだかどこにいるかも分からないで、釜石の遺体安置所を訪ね歩いて、夢中になって探したって。
 
その先生と花巻(岩手県花巻市)の親戚のところに世話になって、7月に大槌に戻ってきたんだ。でも仮設には他の家が1軒も入ってないから、弟の家に1週間くらい泊まったの。おれは4人姉弟なんだけど、すぐ下の弟と、3番目の弟の奥さんが、流されたよ。2人とも上がったけどさ、年取ったおれがこうして助かってね。今はあまりくよくよ考えないようにしてるけど、やっぱり1年目のあたりは何にも分からなかったね、ぼやっとして。2年目3年目になって、ようやくしゃべれるようになったんだよ。

いつか津波が来ることは、流されるとは思っていたけど、早く逃げたつもりだったけど、のんきにしてたんだな。本当に本当に、こんな目にあうと思わなかったよ。

<取材を終えて>
証言は時系列に沿っているが、取材では亡くなった人の話は後半に集中している。話をする前から、その光景はきっと脳裏によみがえっていただろう。阿部さんは取材に応じた理由を、2年半経って「ようやく話せるようになったんだよ」と言った。多くの人が、近しい人を亡くしたり、人が亡くなるのを目の当たりにした記憶を背負っている。そう言わなくても、そのことを忘れずに話を聞くようにしたい。

記事=結城 かほる