ひょうたん島に橋を架ける オガサワラ写真・袰岩孝輔さん

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津波がさらった大槌の町にあふれた笑顔を、「再生」する人がいる。町で唯一復活した写真店「オガサワラ写真」の店主、袰岩(ほろいわ)孝輔さん(47)は人々の笑顔が記録された写真を100枚以上、修復してきた。「泥をかぶっていたっていい。写真は残っていることが大事なんだ」。さらに、「再生」するだけでなく、写真合成の技術を駆使して、突堤が流されてしまった大槌のシンボル「蓬萊島」(NHK人形劇「ひょっこりひょうたん島」のモデルになったとされる)に「ひょうたん」のような双子のアーチ橋を架けるなど、写真店ならではのアイデアで、町の未来を描き続ける。

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写真合成によって蓬萊島(右奥)にかけられた双子のアーチ橋

「やっと見つかった。なんとか元に戻せないかな」。町の商業施設「マスト」の2階にある店舗「オガサワラ写真・チャレンジPhoto」には今も、津波で汚れてしまった写真を修復して欲しいという依頼が寄せられる。店の前には大槌町の「復興まちづくり情報プラザ」があり、被災後の町から自衛隊やNPO法人「パレスチナ子どものキャンペーン」が拾い集めてくれた数十万枚の写真が、データとして残されている。少しずつ心にゆとりができた人々が、そこから家族の写真を見つけては、袰岩さんの店に持ち込む。

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大槌の未来を描いた合成写真を紹介するオガサワラ写真の袰岩さん

塩水や泥をかぶった写真は、色合いが赤く焼けてしまうなど変色してしまう。袰岩さんはスキャナーで読み込んだ写真から、無事だった部分の肌の色合いを抜き取り、汚れた箇所に重ねていく。早くても1時間半、長ければ丸3日かかり、家に持ち帰って手がけることも少なくない。汚れ方によって、元に戻せる度合いも異なり、ほとんど手をつけられないこともある。それでも、手がけた写真を手渡すときには、「まぁちゃんときれいになって」。依頼主のほころぶ顔を見るたび、店を復活させてよかったと実感する。

オガサワラ写真は、JR大槌駅前の商店街の入り口にあった町の写真店だった。駅を挟んで近い住宅街で生まれ育った袰岩さんは釜石市の訓練技術学校を卒業後、町で大工になった。趣味は、友人から譲ってもらった5千円のカメラで撮る風景写真。近くの山や川、大槌の何げない風景を収めてはオガサワラ写真に持ち込んで現像した。大工の仕事にあぶれていた19歳のとき、先代の店主、小笠原喜三郎さんに「うちにこないか」と誘ってもらった。

七五三、結婚式、成人式から引っ越し祝いの写真まで、1階のスタジオで、人々の笑顔を撮り続けた。9月の鹿子踊り、12月の大槌川での鮭の川開き。町の催しにも足を運んで記録に残した。卒業シーズンはかき入れ時。店の2階に泊まり込んで卒業写真やアルバムの製作に追われた。10年前に店を引き継いで店主に。屋根裏や倉庫には、町の人々の何代にもわたる笑顔が刻まれたネガがあった。2年前の津波は、その全てをのみ込んだ。

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店のあった場所で震災発生当時を振り返る袰岩さん

あの日は、妻の朝子さん(47)、長女のひかるさん(24)ら従業員4人と店で、注文された結婚式の写真を現像していた。地震の揺れは大きくなかったが、津波が来ると確信した。自宅の母や妹に避難を呼びかけ、店の駐車場でカメラや食料品を車に積んだ。だが、駐車場から、海側で土煙がもうもうと上がるのが見えた。「津波が来た」。体の悪い朝子さんを連れて、数100メートル離れた城山の高台に走って逃げた。「助けて」と叫ぶ子どもを乗せた車や逃げまどう人々。すぐ後ろで命をのみ込んでいくところを見ながら命からがら、山にかけあがった。地震のときに店にいた常連の客は亡くなったと、後から聞いた。

店も自宅も跡形もなくなり、カメラ一つ残っていなかった。それでも不思議と、写真屋を辞めることは少しも頭に思い浮かばなかった。ふと、避難所に、水浸しの写真が山盛りになっているのを見つけた。災害復旧に駆けつけた自衛隊員が拾い集めてくれたものだった。その中に、津波で亡くなった人の写真があるのにも気づいた。もちろん、名前は書いていない。でも、人々の笑顔を撮り続けてきた写真屋の自分だから届けられるんだ、と使命を感じた。写真の山を掘り返し、遺族に届けた写真は50枚を超える。「これでちゃんと成仏できる」。泣いて喜ばれることもあった。

地震から2カ月後、袰岩さんは家族と一緒に移った花巻市の雇用促進住宅で、写真店を再開させた。大型産業と違って写真店など個人事業には公的な支援もない。中古で500万円する現像機にはとても手が出せず、知り合いの印刷会社から借りたパソコンと、リサイクルショップで買ったスキャナーだけが頼りだった。

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パソコンを使って丁寧に写真を修正している

それでも、震災前に町内に3つあった写真店は、津波で店主が亡くなったり、廃業したりして、復活したのはオガサワラ写真だけ。しばらくは遺影の準備ばかりが仕事で、大槌町で写真を受け取って、花巻の自宅に持ち帰った。必要な修復をして花巻市の写真店で現像、また大槌に届ける生活が続いた。被災前から写真の修整は写真店の大切な仕事。ただ、エアブラシでの手仕事だったため、ほとんど初めて取り組むパソコンでの修復にも苦労したが、手がけた遺影は100枚になった。

一部の被災地では、写真店が遺影を普段の何倍にもつり上げていると聞いた。確かに本来は利益が大きい大型写真を外注せねばならず、袰岩さんも商売が軌道に乗らないことに焦りを感じる。それでも、「困っているのはお互い様」。もともと1万5千円程度で受けていた遺影の仕事も、平時より安い1万円にした。修整も、安ければ千円程度で、丸3日かかっても7千円。2011年の12月に「大槌北小福幸きらり商店街」と「マスト」に2店舗を出し、弟ら4人で町の写真を一手に担っている。

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震災後、町民の写真への考えも変わった。「お金じゃなくて、アルバムを持って逃げれば良かった」。被災直後は生活のことを考えていた人々も、時間が経ち、子どもの成長や家族の思い出が詰まった写真を残しておくべきだったと嘆く声が増えた。袰岩さんも、自身が撮りためた風景写真や店にあった写真を全て失った。撮影者としてはそれまで、ピントがあわなかったり画質が悪かったりする写真は「ごみ」と変わらないと思っていたが、「多少泥をかぶってもいいから、残っていないと意味がない」と知った。現在は撮影した写真や修復中のデータを、全てを持ち運びできるハードディスクに入れて夜は自宅に持ち帰る。きっと津波はまた来る。今度はもう失わないためだ。

娘の携帯電話に残っていた、自宅近くの公園の桜の写真もかけがえのない宝物。自身の携帯電話に移してもらった。被災しなかった人たちが持ち寄ってくれる町の写真を集め、絵はがきも作った。中学校や高校など町の学校の卒業アルバムの収集も始めた。大槌に生きた人々の笑顔や思い出がつまった大切な記録だ。

袰岩さん自身も、津波で流された愛機「ニコンS4」をリサイクルショップで新たに見つけ、町の風景を再び撮り始めた。津波被害が大きかった町には写真家も入り、被災やがれきの様子はたくさん写真に残るだろう。袰岩さん自身は、ボランティアが川をきれいにしてくれたり、ヒマワリを植えてくれたりする風景を残そうと考えている。「あんまり誰も注目しないけど、何げないきれいな光景こそ大事なんだって、津波でわかりました」

震災から2年、復興は相変わらず進まないが、人々の絆は以前より深まり、前向きになってきたと感じる。

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画像処理ソフトで作成した小学校の理想図

「チャレンジPhoto」の店頭には、袰岩さんが手がけた町の理想図の合成写真が飾られている。震災後に身につけた画像処理ソフトの技術を活かした力作だ。プレハブで再建した小学校の理想図は、平屋建ての建物の写真を2つ重ね、鉄筋2階建ての立派な校舎になった。「こんなことしかできないけど、また町が元に戻るようで安心するんだ」。道行く人々と「こんな風になればいいね」と未来の話ができることに、復興の手応えを感じている。

記事=竹野内 崇宏